2006年10月31日

身長対決における栞菜の勝算


応援企画で行われる身長対決で一番望ましいのは栞菜が逆転してめぐを抜かすというシナリオ。それはもちろん「少なくともめぐは抜かす」発言のチッサー・ナッキーと連合を組んでめぐ包囲網を敷いていじめるため。

しかしながら今までのところでは栞菜がめぐを上回ったことはないもよう。

【第6弾での測定結果】

      村上 有原
1回目 152.3 151.6
2回目 152.0 151.5
3回目 151.8 151.4

人間の身長は朝起きた時が一番高く、それからだんだんとごくわずかに縮んでいく。測定結果も律儀にその通りで、二人とも1回目が一番高くその後しだいに低くなっていく。

ただ違うのはその減り方で、栞菜は計2oなのに対してめぐは計5o。結果として身長差は1回目の7oから3回目では4oにまで縮まっている。

栞菜よりめぐの方が身長は高いが収縮率も高い。つまり時間が経てば経つほど差は縮まり、この数ヶ月間で伸びる身長の分を加味すればもしかしたら栞菜が逆転するんじゃないかっていうこと。ここに栞菜の勝算が見出せる。

朝が一番高いということは当日の朝はギリギリまで寝てる。遅刻してもいい。女の戦いは集合する前から始まっている。さらにはイベントの合間にも寝る。これで収縮を防ぐのが勝利への秘策。

でも栞菜はナッキーとはしゃいで、めぐは洋楽ガンガンに聴きながら寝てそうな気はする。

一日のうちでもだんだんと身長差が縮まることからすると、1回目より3回目の方が栞菜の勝つ確率が高い。詰まるところ言いたいのは3回目に当選してくれということです。


【追記】

めぐは洋楽をガンガンに鳴らしながらそのまま起きてはきませんでした。
もう栞菜の勝ちでいいよ。
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2006年10月30日

辰巳出版とハロプロを結ぶ線


すっかりペット番組になったハロモニで吉澤と田中が辰巳出版を訪問していた。辰巳出版といえば「Pure Pure(ピュアピュア)」。「Pure Pure」といえば5月に唐突に岡井明日菜の第一報が載った雑誌。

辰巳出版→「Pure Pure」→明日菜→ハロプロ…というライン。

U-15が対象だからハロプロの一部も当然に範疇に入るのだけど、そこは業界の暗黙のルールか棲み分けを図ってハロプロには一切ノータッチのはずだった(と思う。全て見たわけじゃないので断定はできないけど)。

思うにあれは夏ハロの出演は決まっていたもののまだ事務所との正式な契約を交わしていなかった(憶測)隙を突いての「Pure Pure」のスクープだったのではないだろうか?

だから正式契約後の今では明日菜を扱うことはできない(第一報以降の号を読んでないので明日菜が扱われているのかどうかはわからないですけど)。でもそんな事務所を出し抜くようなことをしてたら今時のほほんとロケになんか行ってないだろうからやっぱ見当違いか。

ちょっと前にいきなりライブ写真集を出版した大誠社も謎。その一回きりであとはパッタリなのでお偉いさん同士の「おつきあい」的なものだったのかもしれない。会長と社長がゴルフの勝った負けたで「じゃあ今度おまえのトコから写真集出させてやるよ」の一言で決まるような世界だと思っています。

裏ではヒトとかカネの交流があって、業界と業界の黒い霧がどうのこうのっていうそういう世界ですよきっと。ハロモニとペット業界は癒着してるのかな?
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2006年10月29日

中島早貴のケロリズム


24日放送bayfm「ON8」より梅田の発言。

言葉の最後に「ケロ」ってつけるんですよ

同じく24日発売の「kindai」12月号より岡井の発言。

んーと、なんで、いつも「ケロケロケロケロ」言ってるんですか?(笑)

…なにこの同時多発ケロは。今までこんなこと一言も言ってなかったよね?ぶっちゃけ最高だよ。応援企画で「ナッキーなり♪」とかのたまってる裏で楽屋でオセロしながらケロケロ言ってたのか?ダメだよそういうことは早く言ってくれなきゃ。

「ナッキーなり♪」はただ自分で言ってるだけだったけど、思いっきり他人を巻き込んで合唱してる。「ケロロ軍曹」なのか?「〜であります!」とか言い出したら要注意。「けろけろけろっぴ」なんてナッキーは知らないよね。

「起立!礼!着席!」で指定された語尾をつけてしゃべるゲームがあるように、アイドルたるものその語尾用法には常に注意を払わねばならない。ミニモニ。は「ぴょん」。高橋愛の「がし」は本当に福井弁でそういう語尾があるのか今もってわからない。これまでに最も衝撃を受けた語尾は「りゅん」ですけどね。

さらにペンギンのぬいぐるみに「おやすみ」を言うナッキー。これを知ってるってことは梅さんは同じ部屋だったってことでいいの?

意外だったのは岡井ちゃんがケロ集団を一歩引いて見ているということ。愛理はいともたやすくケロに篭絡され、マイマイと栞菜は“突入”さえしてくるというのに。見かけによらず客観的な眼を持っているのかもしれない。ケロに関しては℃-uteは次のようにグループ分けできるだろうか。

ケロ語使用派……中島・鈴木・萩原・有原
ケロ語不使用派…矢島・梅田・村上
懐疑的使用派……岡井


ケロとは癒しである。
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梨沙子のオーバーオール二様

selfrisako1.bmp bltrisako.bmp
文化祭エコ色紙より      B.L.T.11月号より

オーバーオールを着てるのは今までにいくつかあると思うけど、とりあえず時期の近いこの二つ。

左は文化祭で展示されていたエコ色紙。「冷蔵庫は開けっぱなしにしない」というタイトルの下に描かれたおそらくは梨沙子自身と思われる女の子。自分を書いたのならばその服装は当然に好みが反映されるはずだから、梨沙子はオーバーオールが好きと言っても良いのかな。ただ好きな季節も春とか夏とか春夏秋冬とかコロコロと変わるから、少なくともこの絵を描いた時点ではという条件付きだけど。

右はB.L.T.11月号より山梨の果樹園にて。二種類ある衣装と梨沙子のオーバーオール好き(?)からして、こっちの方は私服なんじゃないかとちょっと思ったわけです。現着してすぐ「ちょっとこのまま撮ってみようか〜」とか言われて撮ったのかとちょっと思ったんだけど、他のメンバーの服装を見る限りやっぱり私服のわけないか。

それにしてもももちはサイズ間違ってない?素肌…じゃなくて胸がピチピチなんですけど。それはそれでまあうれしいけど。故意に小さいサイズを着てるなんて言われるのもまた桃子たる所以か。
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2006年10月25日

舞波パート変更点(「夏夏」判明分)


赤字が旧舞波パート

「夏わかめ」

トコトン歌えトコトン学べ【菅谷】

恋は無限大【夏焼・徳永】

興味しんしんしん【熊井】

夏ならやっぱ海でしょ【須藤】

恋は未知の世界【夏焼・徳永】

興味しんしんしん【熊井】



「蝉」

それでも三日も過ぎれば【夏焼】

にぎやかで【須藤】

あなたのことを【嗣永】

お夜食はラーメン バター入れて【嗣永】→【嗣永・清水】
私が【清水】

私が【嗣永】
大好きな薄荷の【菅谷・熊井】



「パッション E-CHA E-CHA」

どうして泣いてるか聞かないの?【清水】

あなたのこと【徳永】
ならどんなことでも【須藤】
知りたいの【清水】

何百回とかチュウしても慣れないでいましょ【嗣永・菅谷】?

知らなかった【清水】
おうちじゃあんなふうに【徳永】→【須藤】
呼ばれてんの【須藤】→【徳永】

なんとかかんとか記念にはサービスしてね【嗣永・菅谷】



「恋はひっぱりだこ」

ちょっとあなたが振り返るくらいに【須藤】

(飛び跳ねるフリ)

ダン(菅谷・清水)
ダン(石村・熊井)→(夏焼・須藤)
ダ  (夏焼・須藤)→(熊井)
ダン(嗣永・徳永)
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2006年10月24日

熊井町探訪記

kumai-cho.bmp
熊井町は現在の江東区 永代一丁目 (地図のピンクの部分)。隅田川河口沿いにあって永代通りを挟んで南北に別れる。「J」字形をしている。

始まりは寛永年間(1624〜1643)に開発された利左衛門町。元禄8年(1695)から熊井町となり、昭和6年から現行町名に。摂津の漁師で開発者の熊井利左衛門にちなむ。




ゲキハロの舞台となる明和3年(1766)には既に熊井町は存在していたわけです。昭和初期までは熊井町だったから熊井町で生まれたという人も探せばたぶんいるはず。

river.bmp隅田川の小支川に囲まれている。
商業ビルと住宅が混在。







tukisima.bmp川向こうのマンション群は月島。月島といえば「きらり」ですが一昔前は「雫」でした。でもこの字は実は人名には使えない。「カントリーロード」から岡井を連想することも可能(※)。月島と熊井町が向かい合っているのは神話的に解釈すれば小春と友理奈が対立関係にあることを示す。…もちろんウソです。

yellow1.bmp花の名前なんてわからない。ユリなんてあるはずもなく虹が出てるというわけもない。










blue.bmpせめて友理奈の好きな水色を。
クマはいなかった。







sansaro.bmp三叉路。
駅から近いけど裏に入ると静かな下町。








nobuta.bmpなんか見た風景だと思ったら「野ブタ。をプロデュース」のロケ地だった。蒼井かすみ役の柊瑠美が主人公に追われて逃げる場面。原作の冒頭は辻加護卒業のニュースから始まるんですよ。でもストーリーには全然関係ないんですけど。他にもいくつかのドラマ撮影に使われている。くまいちょーが熊井町に降り立つこともなくはない?


kibun-inari.bmp紀伊国屋文左衛門の祀った紀文稲荷神社。明暦の大火後に建材需要の高まるなか材木を買い占めたりして荒稼ぎ。また紀州からミカンを大量に買いつけたりとある意味ナッキーにとって神。





他にも初代市川団十郎の墓があるという正源寺があったけど、なんか入れる雰囲気じゃなかったのでパス。江戸の買物案内に「翁蕎麦」というそば屋があるとされ、それが「鬼平犯科帳」に出てくるらしい。

もちろん熊井ちゃんとは何の関係もないけど、くまいちょーと呼ばれる限りいつか友理奈がここに立つ日を夢見ていよう。



(※)月島雫は「耳をすませば」というジブリ映画の主人公。主題歌の「カントリーロード」を岡井がキッズオーデで歌っていた。

そんなわけで、おはスタでせとくんが「つきしまぁ!」って言ってるのを聞くと杉村を思い出すのです。

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2006年10月22日

ゲキハロ「江戸から着信!?」のあらすじから読み取れること


「好きな時代は江戸時代」の舞波がいればきっとあからさまに喜んで稽古をしていたと思う。江戸時代限定の歴史カードを作って梨沙子に問題をふっかけたり、相手にされないとみるやエッグにその矛先を向けたり。自分以外のセリフも覚えて、あばばる梨沙子の耳元でそっとささやく優しい舞波。

幕張の文化祭で紺野が白衣着て「説明しよう!」ってやってたアレをぜひ舞波で見てみたい。もしくは江戸時代の二人にいろいろと指図する役。「火事が起きるから気をつけて!」とか「そこの角曲がると奉行所だからとりあえず行ってみて!」とか「ダメモトで田沼意次のトコ行ってみれば?」とか(死ぬって)。「舞波詳しいな〜」みたいな。いっそのこと演技は捨てて時代考証に専念するのもアリかも。でもそれじゃ舞台で見れないよ。

…はい、妄想おつかんな!ってかんじですね。

タイムスリップするのはどうやら梨沙子と雅らしいけど残された5人もそれぞれの江戸時代の先祖役として出てくる手がある。主人公の子ども時代を演じた子役が娘役・孫役として再登場する朝ドラ方式の逆バージョン。それがなくとも出演機会は均等になると思う。

単に江戸時代ではなく明確な明和三年(1766)という年に設定したのにはやはり何らかの狙いがあると見てよい。すなわちその時代背景を利用してストーリーが展開していくはず。

電気の存在を知る男から連想するのは平賀源内。生存年代(1728〜1780)とも矛盾はない。ただ明和三年の時点では源内はまだエレキテルには出会っておらず、前年の明和二年に日本で始めてエレキテルについて書かれた「紅毛談」が成立している。モノ自体は既に幕府に献上はされていたらしい。まぁあったとしてもケータイの充電をするぐらいしか今は思いつかないけど。

キリよく240年前とするためにたまたま明和三年に設定しただけという可能性もあり、“明和年間”であることが重要で“三年”にこだわる必要はないのかもしれない。

もう一つは季節が夏らしいということ。江戸時代にタイムスリップしても違和感のない格好として浴衣を選んだ結果夏にせざるをえなかっただけなのか、あるいはこれは夏夏の夏合宿の続きとして読むことができるのか。夏夏を脚本家が見に来てても不思議ではない、というか見るべきだし普通来てると思う。夏合宿の寸劇を参考にゲキハロの脚本を書いているかもしれない。共通するキーワードは「花火」と「寺」。

夏夏での「花火」は「シンデレラ」の直前、「花火が上がるということは8時だから9時までに帰って掃除しとかきゃ」というくだり。夏祭りという非日常の場から離れる合図として作用している(もっとも一泊二日の夏合宿自体が非日常と言えるんだけども)。

一方、演劇のあらすじ一行目。

ある日、花火に行こうと地元の寺に集まった中学生。


二人がタイムスリップするのは花火に行こうとする途中だった。ここでは現代という日常から非日常の江戸時代へと転換するきっかけとして花火が表れている。

そして「寺」は千奈美が若い坊主をたらしこん…じゃなくて三原則を説いていたあの寺。夏夏では単に寄り道の場として、演劇ではどうやら異界への入口としてあるらしい。

「江戸っ娘忠臣蔵」で町場に出てきた姫を演じた藤本を娘。に加入したばかりの状況と重ねて異人と捉える考えは卓見だと思った。野に下るという意味でも。町民の中に混じる姫とモーニング娘。という集団に置かれたソロ歌手藤本美貴。劇中にリンクする現実世界という考えが少なくとも藤本に関してはできた。掲載誌はブブカだった。

なんて言ったもののあの狭い会場で至近距離でべりっこを見れればこんなことはわりとどうでもよくなるんだろうな。

というわけで、無駄な考察はこれでお芝居波!
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2006年10月21日

リアルGAM


Great Airi & Maimi

realgam.bmp


これが本当のGAMでしょ?特にAの二人にはアゴという共通項もあることだし。1stシングルは好きな言葉から取ったんだよね。


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聞きなし「くまいちょー」


「ナッツーさん」と呼ばれた雅ちゃんのわりと素っ気ない返事からすると「またももは何言ってんの?」みたいな感じだったけど、言い続けてると不思議なほどに気にならなくなってしまうのはもはやももちの術中にハマっているのに他ならない。

気付けば「くまいちょー」も当たり前のように(たぶんメンバーも)聞き流すようになってきたけどやっぱり気になる。「くまいちょー」の「ちょー」って何?

熊井鳥、熊井蝶、熊井調、熊井長、熊胃腸…。ちなみに「くまいちょう」で変換させたら「熊銀杏」だって。

熊○村と○井村が合併すれば“熊井町”になるかも。悪名高い合成地名ってやつだけど今時合併して町はないか。でも江戸深川の町名に熊井町が実在したらしく池波正太郎の小説にも出てくるとか。

実際のところ単なる憶測に過ぎないけど、桃子が「熊井ちゃん」と呼ぼうとした時に言い間違えて「熊井ちょう」となったのが面白くてずっとそれで呼んでるんだと思うんですがどうなんでしょう…。
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2006年10月19日

演劇療法としての「小津栞菜」


メンバー内ではよく名前のあがるうるさいほどに明るいキャラなのに、なかなかそれをステージで見せる機会のない栞菜。

緊張しているのか遠慮しているのか、もうメンバーには気を使うことはないと思うけど、ステージの上で客を前にしてとなるとまた話は別なんだろうか。フットサルでゴールを決めた時のはしゃぐ姿を知ってるから、余計にもっと素を出してほしいと思う。

そんな栞菜に与えられた応援企画第6弾内「キューティー探偵事務所」での「小津栞菜」役は充分に素顔を見せるきっかけになるんじゃないか。娘がいなくなっても「大丈夫 きっと大丈夫」と歌う愛理ママに対して「あなたが大丈夫?」とツッコむ、ハッキリとした明るい役。それは栞菜が今まで出せなかった本当の姿のように映る。

演劇療法(ドラマセラピー)というのがあって、演劇形式で特定の役割を演じることによって自分を客観的に見つめなおすという効果を持つらしい。“療法”というと病気みたいだけど要は栞菜がその姿をさらけ出していくための準備だと考えればいい。

しかも役名からもわかるように「おつかんな!」のセリフがある。これはウケる。絶対にウケる。というかその発祥はこちら(客側)にあるので責任持ってウケてあげなければならない。役を演じてもウケないと逆に自信を失いかねないけど、これは確実にウケる仕組みになっている。明るくウケるキャラを演じることによって栞菜が自信を持ち、もっと自然にステージに立てるようになればいいと思う。

12月には役ではない自然に明るい栞菜が見れると思ってます。
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2006年10月18日

「Berryz工房 起立!礼!着席!」 #133(2006/10/17)


Berryz工房が考えるツアータイトル



夏焼…ピンク桜のように
熊井…Berryz学園〜ドキドキの入学式〜
嗣永…桜ヒラヒラお団子いっぱい
菅谷…タンポポ



嗣永…雪やコンコン♪雪だるまいらっしゃい
熊井…みんなで作ろう雪だるま〜雪だるまに思い出いっぱい〜
菅谷…雪だるま
夏焼…雪だるまと一緒

こうして書き起こしてみると明らかに特徴を見て取ることができます。タイトルとサブタイトルに分ける友理奈。二節からなる桃子。一節でまとめる雅。一言主神、梨沙子。

ちょっとお姉さんぶって披露した知識が間違っちゃってるところがもぉらしいです。「知ってるよ」と言った梨沙子は以前にもぉから聞いていたかそれとも単に強がりかな。「浦公英」でも中国語のサイトがひっかかるから向こうではそう書くこともあるのかも。

嗣永の夏焼呼称「ナッツーさん」。みーやんはもう飽きたのか?自分だけのあだ名をつけるのは独占欲の表れだという解釈を聞いたことがあるけど二人の間に何か新しい関係が生まれたのだろうかっていうのはちょっと考えすぎですね。むしろナッツーって呼んでどんな反応を示すか探りを入れてる段階なのかもしれない。一時的なものに終わる可能性もある。そして相変わらずのくまいちょー。
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2006年10月17日

七つすぎても神の子梨沙子


大林太良は仮面の機能として一般的ではないとしながらも「神を見ないようにすること」を挙げている。おそらくは神聖ゆえに直視を禁ずるということだと思う。以下はアリュートの12月の祭りの例。

「(偶像に神を降ろす時に)人がつける仮面には、目のところに穴がなく、鼻のところに穴が開いている。神様を見ないために仮面をかぶるわけです。鼻の穴からは下が見えますので、下を見ながら神様の姿を見ないようにして踊るわけです。」


下を見ながら踊る姿に「かっちょええ!」の梨沙子の姿が重なる。頑なに下を向いて足元を気にした不安そうな表情は神様を見ないようにしていたのか…。そうすると「神=客」ということになるんだけどまぁそういう言葉もあるにはあるなぁ。対照的にファイナルの大阪夜でみんなズッコけてる中で一人神様の方を向く梨沙子。

ステージ上で支離滅裂(俗に「あばばば」とかいう)になっている時、何かが降りてきてるんじゃないかと思ってた。それは何かの神なのか魍魎の類なのか、それとも梨沙子自身が神なのか。わからないままで時は過ぎる。
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2006年10月16日

夏夏における「かっちょええ!」の文化人類学的解釈(5)


〜そして「外形の原理」から導きうるもの〜

「かっちょええ!」の分析によって「外形の原理」の存在が明らかになった。では現在のBerryz工房を鑑みるに、その原理から導きうるものとは一体何なのか?

外見こそが重要だということは「7人は7人」だということ。つまりは「人数は7人だけど心は8人」とかいう感情論の否定である。「かっちょええ!」は舞波在籍時の曲の中でも、8人で披露したことのない数少ないうちの一つでもある。

今現在7人であるからにはそれ以上も以下もない。仮にも舞波の存在を想定したりすることを否定する。そしてそれは舞波ヲタにとって最も厳しい答えとなる。要するに自己否定となってしまうのだから。

「外形の原理」はその外見以上のものを許さない。メンバーが笑っていればそれは心の底からうれしいのであり、いつも笑っているのならばそれはいつも楽しいということになる。決してその裏に潜む苦悩やためらいなんかを想像してはいけない。

でも僕は知っている。「笑顔」という仮面を脱ぎ捨てた、嘘のつけない舞波を。苦しみも悲しみもあることを。一人「外形の原理」から逸脱した舞波を追いかけるからこそ、今のベリーズが「外形の原理」に貫かれているとしてもそこから少し離れて俯瞰して見ることができる。むしろ舞波がいなくなったことで始めて客観的な視点を持つようになったのかもしれない。

そうして話は舞波に及んで自己否定をさらに否定する。僕はこれからも生きていくよ。



参考文献:大林太良「仮面と神話」(小学館、1998)
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2006年10月15日

熊井友理奈の言語変換機能


嗣永憲法“第三条”から錠剤を思い浮かべて「(三錠で)薬かと思った」という友理奈には「身長さ〜ん!」が「身長3」に聞こえる。彼女の変換機能は左ななめ180度ぐらい他とズレている。

そしてなにより友理奈らしいのは、間違ったその変換を自重せずに口にするところ。
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2006年10月13日

夏夏における「かっちょええ!」の文化人類学的解釈(4)

〜「早着替え」を「外被の思想」として捉える〜

そこで振り返ってみると夏夏の中にも「外被の思想」とも言うべきものを見ることが出きる。「かっちょええ!」の後、「パッション」を挟んで「夏わかめ」のイントロ部分になってしまうが、いわゆる「早着替え」である。

着替えといっても下に次の衣装を着てるから上着を脱ぎ捨てる形になるのだが、これこそまさに「脱皮」そのものに見える。そして脱ぎ捨てた衣装が「羽衣」。

しかも早着替えは前回の「にょきにょき」では「夢でドゥーアップ」と「恋してる時はいつも…」の間に暗闇の中でひっそりと行われた(※)のに対して「夏夏」では照明を落とすこともなく明らかに見せるべきパフォーマンスの一部としてなされている。言い換えればそれはセットリストには記載されないものの、こちら側が読み取るべき対象になりうるいうことだ。

このようにして「仮面」「脱皮」「羽衣」この三要素を「かっちょええ!」から見出すことができる。それはすなわち「外形の原理」によって貫かれていることを示すものでもある。


(※)嗣永・徳永・須藤の三人。曲間で暗闇のためDVDで確認することはできないが、現場ではある程度前列にいれば見ることができた。暗闇で服を脱ぐシルエットがなんともなまめかしい
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夏夏における「かっちょええ!」の文化人類学的解釈(3)


〜「外被の思想」から導かれる「外形の原理」〜

おかめとひょっとこの分類から何かしらの意味を読み取ることはいったんここで行き詰まってしまった。とりあえずは仮面を使用するという事実から手がかりを探すことにしたい。

大林太良はエスキモーやアメリカ北西海岸のトリンギット族のシャーマニズムにおいて、シャーマンに憑くのはかぶる仮面が表す精霊だと指摘する。すなわち悪い精霊の仮面をかぶれば悪い精霊が憑き、月の精霊の仮面をかぶれば月の精霊が憑くということである。

これを日本のイタコやユタと呼ばれるシャーマンと比較し、日本のそれが仮面を使用せず憑依後も外見が変わらないのに対して、仮面をつける(=外見を変える)ことによって憑依を行うエスキモーやトリンギットに「外面が大切であるという観念が強い」ことを見出す。

また大林太良はフリッツ・クラウゼらの古典的な論文を引きながら仮面に伴う事象として「脱皮の神話」と「羽衣伝説」に注目している。

「脱皮の神話」とはメラネシアに特に見られる人間の死の起源を説明する神話で、かつて脱皮することによって人間は不死であったというもの。

「羽衣伝説」は羽衣を盗まれた天女が天に帰れなくなるというもの。

そして「仮面仮装」「脱皮の神話」「羽衣伝説」の三者が、ミクロネシアからポリネシアにかけての広い地域を単位として見た時にその分布の傾向が重なることを見出し、その背後には共通する物の考え方があるとし、それを「外被の思想」と呼んでいる。

要するに外見こそが重要であるとの考え方(外形の原理)が基底にあり、それが「仮面仮装」「脱皮の神話」「羽衣伝説」という形をとって表れているということ。
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2006年10月12日

菅谷梨沙子写真集「Risako」 〜桜の木の下で〜


普段惰性で買っているものとは明らかに異質な、これだけはどうしても絶対に買っておかなければならないものがある。

松浦の1stアルバム「FIRST KISS」がそれだった。レンタルで済ませようと借りて聴いてみたそれはあまりにも衝撃だった。歴史が変わる瞬間というのがある。「桃色片想い」を待つまでもなく松浦はもう頂上に登り詰めていた。そこに立ち合せた者として「これは持ってなきゃダメだ」と身銭を切った。レンタルやうp待ちで済ませてはいけない。単にハロプロの歴史にとどまらずアイドルの歴史においてこれはターニングポイントだと思ったから。

それ以後にももちろんいい曲はたくさんある。特にミニモニ。のアルバム曲は1stも2ndもそれぞれ色は違うけどこのまま埋もれさせるには非常に惜しい。

だがこの衝撃は「FIRST KISS」以来だ。

菅谷梨沙子写真集「Risako」。

小学生の女の子に水着なんて…と槍玉に上がりそうではある。ヲタであっても微妙な反応を示す人は多いと思う。でも正直言うと個人的には「少し遅い」くらい。「12歳」を強調してはいるけど巷のローティーンものとは明らかに違うのは見ればわかる。ちゃんと女優してる。

梨沙子はやはり笑っていない顔が美しい。頬に手を当て振り向いた目線。黒いドレスでこちらを覗き込む怪訝そうな顔色。壁に手をついて怒ったように見つめる瞳。

大好きな桜とヒヨコとそして魔女。

魔女になりたいと言っていた梨沙子は知らぬ間に魔法を使っている。ヒヨコはきっとあの黄色い水着だ。

「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と言った。それは説明がつかないほどに美しすぎる桜への苦し紛れの言い訳だと思う。美しいものの裏にはきっと美しくないものがある。聖と俗は常に表裏一体だという心理。でも本当にそこには死体が埋まっているのかもしれない。だって桜の下にいる梨沙子はあんなにも美しいのだから。それは“例えようもないくらい”。

聖から俗が透ける時、そこに憂いが見える。惹句ではそれを「少女の危うさ」なんて言ったりする。


菅谷梨沙子の憂鬱〜散るサクラ憂うリサコ〜


【追記】
秋の桜なんて今まで気に留めたことすらなかった。漢字で書くとコスモスになっちゃうし。桜の歌はそれこそ散るほどに詠まれてきたと思うけど、春以外の桜を詠んだものはあるんだろうか。
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2006年10月11日

顎関節症によせて


「アゴを触るとアゴ伸びる」と言ったのは愛理。自画像を描けば母親から「愛理こんなアゴ短くない」と軽い精神的虐待。

かつて「アゴン」と呼ばれた石川のように「アゴリ」とか呼ばれてもよさそうなものなのに(よくないか、ゴメン)そういう話が全く聞かれないのは、既に自分でネタにしているからなのか、あるいは「愛理はいじめちゃいけない」ことをメンバーが直感的に感じとっているからなのか。

一方で「アゴびちゃん」とか「ナス焼」とか言われてしまう雅ちゃんは頑なにアゴには触れない。ということはやっぱり気にしてるのだろうか。

美勇伝の岡田も最初はアゴ呼ばわりされてたけど、アゴよりも他の三人にない部分に目が行ってしまう。

石川のアゴに最初に触れた「モーたい。」のおじさんも単にアゴをからかったわけではなく「アゴが出てるから美人」だと言いたかったんだ。そう、アゴは美人のしるしなんだよ。あと30年もすればきっとわかる。その時でもみんな美人のはず。

愛理が歌った「そういえば」は松浦の曲の中で一番好きです。
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夏夏における「かっちょええ!」の文化人類学的解釈(2)


〜「男女の分離」に基くおかめとひょっとこによるグルーピング〜

民族学者・文化人類学者の大林太良は「近代以前の伝統的な社会における仮面舞踏は、まずたいていの場合、男女の分離というのを前提と」すると説く。例として北太平洋アリューシャン列島のアリュート族の女性のみが裸で月夜に踊る祭儀では男が入ろうとすると死をもって罰せられたこと、逆にメラネシアやアフリカでの男性のみで組織される秘密結社が挙げられている。

これを「かっちょええ!」にも当てはめてみよう。おかめとひょっとこによって男女の分離がなされていると見なし、その組み合わせに着目してみる。

おかめ=清水・嗣永・須藤・夏焼
ひょっとこ=徳永・熊井・菅谷

大雑把に見ておかめの方が年長者でひょっとこが年少者で固められている。この4-3の組み合わせに見るべきものとは一体何か?年長組と年少組の対立?もしくは融和の過程を曲を通じて表現しているのだろうか?といってもそのようなものは浅学では読み取ることはできない。

清水がひょっとこ組に入ればこれは出身地域によっておおまかに二分したことになる。わかりやすく言えば「新横浜組」と「東京組」。しかし長幼にしろ出身地域にしろ正確に区別されているわけではない。


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2006年10月10日

夏夏における「かっちょええ!」の文化人類学的解釈(1)


〜問題の提起と仮面の意味〜

夏夏のライブ中盤、VTR明けのお祭り風にアレンジされた「かっちょええ!」。ここで屋台のお面を思わせるおかめとひょっとこで顔を隠してメンバーが登場する。

市原以来非常に気になっていたのは「ここで面をつける意味はなんだろう?」ということ。

もちろん祭りの雰囲気を出すための単なる小道具にすぎないと見るのが当然であり、こんなことは考えない方が正しいのかもしれない。ただ何か少しでも意味が見出せるのだとしたら追いかけてみたい。文化人類学とは「隠喩を見出すこと」だともいう。

そもそも仮面をつけることにはどんな意味があるのだろうか。その効果には

@自らの姿を隠す
A自分以外のものに変異する

の二点が考えられる。祭礼・舞踊の際に用いる仮面については多くAが当てはまり、変異するものは神仏や鬼であったりする。

ではベリーズは仮面を使うことによって何か他の存在になろうとしているということなのだろうか。いや、こちらから見ればベリーズそのものがむしろ神。神がおかめやひょっとこに変身するのは考えにくい、@でいう自らの姿を隠してしまうのも腑に落ちない。ベリーズは仮面を用いて変異するまでもなく神のような存在なのだから。

あるいはプライベートの状態から仕事モードに切り替える手段としての仮面と見ることもできる。まるでK太郎のように。普通の小中学生からBerryz工房へと変異する象徴としての仮面。だがそれだとセットリストの中盤に位置することが説明できない。もしライブが始まっていきなりおかめとひょっとこで出てきたらこの解釈は当てはまると言えるかもしれない。
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