2007年09月30日

Buono!のうずたかいもの


「解体新書」に「鼻」と翻訳されたのは「フルヘッヘンド(うずたかく積もっているもの)」。鼻は体の中でうずたかくあるもので、Aカップの平板さによってその高さは際立つ。同じように平板さを持つ愛理と雅は鼻よりもアゴが際立ち、顔が平板とか言われる桃子は胸が平板でない。実際には原書とされる「ターヘル・アナトミア」に「うずたかいもの」とあるのは「鼻」の項ではなく「胸」の項だとか。

明日は横浜。雅&桃子のファンが怖いよ〜。
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2007年09月28日

2007/9/24 【℃-uteライブツアー2007秋 放課後のエッセンス】 Zepp Sendai


びっくりするくらい拍子抜けする、至って普通の℃-uteがいた。今ツアーとしては初の全員揃い踏み。マフラータオルの2L写真でなっきぃが言うところの「7人で力を合わせて」というその7人が初めて集う日。ではあったけどそれには何も触れずに、ただ愛理がMCの終わりに「続いて7人でこの曲を歌います」と言った時に、これがいま初めて聞くセリフであることに気が付いただけだった。

たった一日とはいえメンバーが欠ける。そこに「卒業」という縁起でもない仮想をしたときに、今いる7人がもっと特別に見えるかと思ったけど、そんなことはなくそれが普通だった。逆に言えば、仮想ではない「脱退」があって7人になったことはもはや異常事態でも何でもない。「この7人で℃-uteです」というごく当然の事実だった。それを意外と思ってしまうのは偏執的な歪んだ思いに違いないけれど、ちょうどこのツアーを終えるときに一年という区切りを迎えるように、一公演一公演がとらわれた煩悩から身を解き放つための禊の場としてあるのかもしれない。すべてを終えてまさに身を削ぐ思いで余計なものを取り払ったそのあとに、℃-uteの本質が残る。

「(大事な大会の)前の日」

名古屋ではステージ上手に一人で左右に振れていた栞菜の前に千聖が。本来の3人ver.ならば次のパートを歌う必要上栞菜が前にくるはずだけど、ここでは逆だった。梅さんは愛理・舞美とともにステージ中央に。

岡井「一人でMVPを狙っていたけどみんながMVPです!」

ということは名古屋では誰もMVPはいなかったということ。

これもまた曲名さえ記憶が定かではないのだけど、腕を上げるフリのところで栞菜は隣にいた梅さんを横目で見て、タイミングを合わせるようにして腕を上げていた。梅さんは「言わなかった?」で語尾を合わせて叫んでくるヲタに対して意図的にタイミングを外してきた。ついてくるヲタをかわす。

最後のMCで噛むというよりはろれつが回っていない栞菜。「なんだかんだ!有原栞菜でした!」。本当になんだかんだの末だった。

駅の土産を覗くだけでもずんだもち(枝豆)に萩の月、ラ・フランスと意外と℃-uteにゆかりがあったりする意外性の街、仙台。文化祭を境にすれば、名古屋から横浜までの前半で「℃-uteの7人」のみによるライブは仙台だけ。

Zeppから歩いて行けるフルスタでは4-2で楽天の勝利。西口が負けて9勝10敗とかどんだけ℃-uteが好きなんだよ。まぁ西口だけに負けても乙!いつもとはちょっと違ったテンポのおつかんなコールもあって、外に出てみると雲間から月。雲隠れせぬ夜半の月かな。ZeppのオリジナルTシャツは「7STARS」って言うんだって。それはタバコでもないし太陽でもない。デセンス(元巨人)はメジャーに帰ってからがすごい!のちに言う放課後のデセンスである。


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時間と場所に思うもの 〜NとSとUとU〜


芥川は「歯車」の作中、義弟との会話の中で自らの持つ両極性を吐露している。

「妙に人間離れをしているかと思えば、人間的欲望もずいぶん烈しいし、……」
「善人かと思えば、悪人でもあるしさ」
「いや、善悪というよりも何かもっと反対なものが、……」
「じゃ大人の中に子供もあるのだろう」
「そうでもない。僕にははっきりと言えないけれど、……電気の両極に似ているのかな。何しろ反対なものをいっしょに持っている」

ここで電気の両極に似ていると言われた人格は、いま磁石のNとSに例えられる。

「正反対だけどなぜか ぴったりくる磁石の NとSみたいだね」

ただ決定的に違うのは、芥川はNとSを一人で抱え込んでしまったこと。このふたつは一人の人間の中に同居できるほど穏やかなものではないみたいだ。それはいわば一本の棒磁石にNとSがあるようなもので、この正反対が互いにひきつけ合うためにはそれではいけなかった。ならばとそれをU字形に曲げる時、NとSは互いに向き合って磁場を発生させる。

さらにNとSを追求してみるとき、歌詞に生じた重大な齟齬がふたりの関係をわかりにくいものにしているように見えるが、そこにこそこの曲の、NとSの本質があると見る。

きらり「わたしが右なら、」
ひかる「きみは左」

こう歌うとき「わたし」と「きみ」が同じ人物、きらりを指していることに気付くだろうか。きらりが「わたし」と言えばそれはそのままきらり自身だし、ひかるが「きみ」と言えばそれはきらりのことを指す。「わたし」と「きみ」は同じきらりを指しているのだ。きらりは右なのか左なのか。ひかるはどこへ行ったのか。畢竟これはふたりで歌ってはいるが歌詞そのものは一人で歌うためのものなのである。それをふたりで歌うということはつまり「ふたりでひとり」ということだ。

そしてきらりとひかるがU字の磁石を持って互いにひきつけ合っているPVを見るにつけ思わずにいられないのは、それがタブルではなくシングルユーだということ。そこにいる「あなた」がひとりだということ。

飛び火する連想に任せれば、寝るキューの「いつまでも手をつなぐ かわいい恋をする」関係とcautionテープから浮かぶものは

「好き好きっす キスはコーションね」

易々とコーションを乗り越えていったふたりはいま何をしているというのか。

「好き好きっす ロボットだっても」

ロボットはどうしようもなく生々しい人間になった。つかず離れずだった「UU」は…いやくっついてるようでわずかに離れていたと言った方がよいのか、互いに別の「U」を求めて逝ってしまった。それはふたりの是としたところの倒錯によっても得られる。「双子じゃないのに双子みたい」はひっくり返せば「双子みたいなのに双子じゃない」。

辻加護はいつか別れるものと思っていた。さくらとおとめを前段階として辻加護から辻と加護になる日が来ると思っていた。だからWとしてのデビューについては理解はしつつも納得はし難かったんだけど、そういう複雑な気持ちを「ロボキッス」はかき消してくれた。こんな曲を聴けるのならば、二人でデビューしたことを喜んで受け入れたかった。それでも別れるのは必然であったらしい。やっぱり二人は双子じゃなかった。

ハロモニの懐かしい映像を見てみたらその歌詞はあまりにも現実そのもので、もはや完全に歌詞の意味が失われてしまっている。言葉には意味を忍ばせるものなら、忍ばせたはずのその意味は骨抜きにされてしまっていた。当時と同じ態度で聴くことはもうできない。歌詞のすべてがいちいち喉に刺さる小骨のようにイタい。「穴が開いてるレンコン」で作った両の輪を腰の前にあてがうのは性的な挑発にも見え、それは呼吸をするため、生きるための穴二つとは違って(アイドルとして)死ぬための二つの穴だった。そこにあるのもまた青と赤で、後ろに見えるおそらく使い回しのセットには歯車があったりもする。

SSAでミニモニ。がMをかたどって4本のマイクを置いたとき、図らずも客席からはそれが「W」に見えていた。あのときミニモニ。と僕らは見つめあうでもなく目を反らすでもなく同じものを見ていたというのに、それは普段のコンサートにはないような、交差するでもすれ違うでもないただ一点に向かって収束してゆく視線だったのに、見えているものは違っていた。ミニモニ。は過去を、僕らは未来を。それは同時にミニモニ。はとうに進んだ未来から振り返って過去を、僕らはいまだ踏みとどまっていた過去から歩こうとせずに未来を、見ていたことでもあるんだけど。

それにひきかえるとNとSはひっくり返してもNとS(バカヒロはバカじゃないよ)。どこから見ても、歌う人が変わってもNとSという関係性は変わらない。NSPVOP.(「ふたりはNS」のPVのオープニング)が始まる前に置かれている磁石を記号化してみると「N∩S」となる。NかつS。正反対だけどなぜかぴったりくるのは、正反対に見えて心奥に何か共有するものがあるからだと思う。

「ロボキッス」を初めて見たのはちょうど3年前の今ごろ、ここZepp Sendaiだった(初披露はその前々日9/23、Zepp Sapporo)。一ヶ月前に仙台に来たときにはこんなことは思いもしなかったのに、めぐる季節と場所の座標がぴったり一致したとき、そこに思い出のベクトルが自分をめがけてやってきて、そして通り過ぎていった。
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永遠に寝る子はキュートな芥川


まず何よりも千聖の口から「あくたがわりゅうのすけ」という言葉を聞けることがすごい。

芥川龍之介が世に出るきっかけとなったのが「鼻」ならば、まさにこの世を去ろうとする直前の作品に「歯車」があって、作中の主人公(≒芥川)は不眠症に悩まされて半透明な歯車の幻想を見る。それは同病者によくある症状ではあるらしいのだけど、そこから始まる神秘体験は、千聖が「はぁ〜ぬわぁぁぁ〜」と叫ぶその先にある時計が歯車に見えてくるということ。芥川にとってそれは自死の予兆であったかもしれないが、かといっていま同じ歯車を見たとしても℃-uteを前にその心持ちまで一緒になることはない。

不眠症の芥川は、睡眠薬を自死の手段に選んだ芥川は、「寝る子はキュート」に何を見るのか。二度寝どころか三度寝する愛理に何を思うだろうか。「あと何分?」に自らの余命を量るだろうか。

「ぼんやりとした不安」を抱えて芥川は死んだ。いつだって安心したかったんだね。熊声の「安心感」を聴いていれば死ななかったのかな。人生にくじけても、そこでしか会えない桃子がいる。「至って健康」「生きるという力」。きっと死ぬのがバカバカしくなる。

没後80年にして「はなぷん」の歌詞に名前があるということ。それが単に「鼻」からの連想に過ぎないとしても、今から80年後にそんな人はいるだろうか。芥川の不幸はその時代にアイドルがいなかったこと。僕の幸せはこの時代に生まれたこと。何かを説くような顔をしていた千聖の「ハナは流れてピロロンピー」に過ぐる世の無常を思う。石嶺聡子が歌う「花」にはとうてい比べられる次元にはないけれど、この部分だけは同じことを言っているように聞こえた。ハナは流れてどこどこ行くの。

大量の睡眠薬で死のうしたら、間違えて正露丸を飲んでたとかそんなオチは嫌いかな龍ちゃんは。まぁ言ったら言ったでそんな芥川のはなを“ぷーん”だけどね。芥川と連番は文壇の夢!「群像」とかに堂々とごまコンのレポを書いた芥川賞受賞者もいたぐらいだから、次の芥川賞ははなぷんを作詞した人でいいよ。
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2007年09月23日

通学(↑)と光学(→)のベクトル交換


まだ始まったばかりではあるけれど、名古屋までに限って言えば「通学ベクトル」は梅田・岡井・有原の三人で歌い回している。よくよく考えてみればこの三人も「勇ましい輝きの方へ」「美しい輝きの方へ」と向かうベクトルを有していた。

ただし通学ベクトルが天を指し示すのに対して、光学ベクトルは前方の多方向を指す。いわば垂直(といってもその方向は一様ではなく、雨が落ちて下降する垂直ベクトルと天を指して上昇する垂直ベクトルが想定される)ベクトルである前者に対して水平ベクトルである後者。「垂直(↑)/水平(→)」が指向する果てには他界観を重ね合わせることもできる。天上・山上他界を想定する垂直ベクトルと海上他界を想定する水平ベクトル。それは祖霊としての神の示現にもつながり、「神様は意地悪ね」の神様ははるか天上にいるし、好きから始まるヒーローとヒロインは指差す向こうで毎日笑ったり遊んだりしている。

また、ステージ上のベクトルを模倣する時、垂直ベクトルはその向かう先は共に同じく天を指し、たちまちに合成されて増幅してゆくが、水平ベクトルについては互いを指し合っているのか、互いの後ろにあるものを指し合っているのか(※)、あるいは一方は相手を指しているのに対して他方は相手の後ろにあるものを指しているのか、果ては両者は全く同一の物を指していて、それはステージと客席の間に一衣帯水としてある何物かなのかはわからない。

「通学ベクトル」にあるのは今いるこの場と雨が降りてくる天上との双方向的な世界であるが、「僕らの輝き」は曲を通じて3という聖数が基調になっていることを考えれば、「僕ら=三人」と「僕ら=客席」、そしてもう一つ「勇ましい輝きの方」「美しい輝きの方」という三様の世界が広がっている。

そしてこの2曲が共にベクトルで表されうるというところに、愛理が「僕らの輝き」冒頭の千聖パートを歌う必然性が見出せる。三人は愛理の「通学ベクトル」を歌い、愛理は三人の「光学ベクトル」の主要パートを任される。いわば「通学」と「光学」のベクトル交換。

愛理に続く「涙が浮かぶよな夜中も」は舞美。栞菜がいるけど舞美。この必然性はなんだろう。舞美は涙を隠すためにあんなに汗をかくんじゃないだろうか。舞美の汗には時に涙が混じっていることを知らなかった。ただ栞菜だけはその汗に涙の匂いがするのを感じていた。

6人での「僕らの輝き」はそこにいない千聖を呼ぼうとする。

「ここにいるのは6人。でもまるで7人いるみたいにするの」

「7人目の娘を呼ぶためには、あたしら6人が揃う必要が絶対にあったの。だからみんな、本気で歌ってね」

千聖の不在に思ったのは代わりに明日菜が歌えないのかということ。それは現時点では全く無理な話ではあるけど、いつかそんな日が来ないかとふと思ったり。現実的には代役でなくても、同じステージに立つだけでいい。バックダンサーでいい。歌わなくてもいい。ただその場にいるというだけでこの歌詞を体現できるのはこの二人しかいないから。

「家族とならば黙っていても何となくわかるだろし」

この世のすべてはベクトルで表されるという。そう思えば時計の二本の針が、さまよう二つのベクトルに見えてくる。


(※この二態を交差ベクトル、後の世にクロスロードと言う。なお、あの街に続いてる気がする一方向的なベクトルをカントリーロードとも言う)
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好きから始まる「僕らの輝き」 〜「かっちょええ!」に照らして〜


いつでも好きでとにかく好きで。まずカッコいい。どうにもカッコいい。そしてカッコイイ。やっぱりカッコいい。「僕ら」でZONEを思い出す。解散してから初めてのオリコン1位なんて涙が出るほどカッコいい。

編曲の小倉健二って誰?と思いながら今まで調べていなかった。やるべきことは常に明日へと先送りしてきたから。そして今その時が来た。数ある作品群の中に見たものは…

編曲 【ダンディー坂野】 シングル『OH! NICE GET's!』

これかー!これで千聖とつながるわけか!実際には菊池亜衣からのつながりみたいだけど、いまどきゲッツなんてやるのは千聖とラミレス(ヤクルト)だけ。本人すらやらないのに(見ないだけ?)。

ミニアルバム「生きるという力」にあって最多人数ユニットとなるこの曲は、強く「後列」的な印象を与えた。前列と後列に区別することに一体どれだけの意味があるのか、特にこの℃-uteというグループにおいては、という思いは留め置いたところで、アルバムでも放課後コンでもやはり愛理と舞美がソロを歌っているということからは「前後」というよりはむしろ「愛理舞美」と「その他」という集合図は黙視できないところであって、詰まるところこの曲にはスイッチON!の「かっちょええ!」に通ずるものを感じていた。

初めてライブで聴いた時にはすでに舞波の卒業を知った後だったからどうしても目は舞波を追ってしまったけど、あれはあの三人であるところに大きな意味があった。しかも「前後」の後列ではなく、ゆりちなの中列があっての後列だからその後方感たるや凄まじい。またそれゆえにその三人が場を占めるということが凄まじかった。

曲中で「かっちょええ!」は77回繰り返されるという。「勇ましい輝きの方へ 美しい輝きの方へ」の分も含めれば「僕らの輝き」は67回前に向かって指を差す。「かっちょええ!」と「指差し」、その反復は呪術的ですらある。「かっちょええ!」の歌詞自体の構成は古くは「枕草子」の章段にも見える「物尽くし」の体裁をとっていて、ただひたすらかっちょええものを並べていく。

「笑顔 部活 授業 マイクさばきも」

最初はこのように「笑顔がかっちょええ」であり「部活(をやっている姿)がかっちょええ」であったのが、かっちょええものを連呼していくうちに何がかっちょええのかはしだいにわからなくなっていって、やがて

「大きく 両手で 元気に 自然に」

と、かっちょええものを示すための動作表現に変化している。そうして最後にはただ「かっちょええ!」だけが残り、「何が」は示されぬまま「かっちょええ!かっちょええ!かっちょええじゃん!」で終わる。物尽くしとしてかっちょええものを並べていくうちに尽くすことが多すぎて意味を失い、最後の「かっちょええじゃん!」には個別の列挙では収まりきらない「(すべてが)」の意が含まれているように思える。これがあれがと言うのではなくすべてがかっちょええじゃん。後列であっても、卒業しても。その時はまだ卒業を決意した舞波をかっちょええとは思えなかったけど、あの状況で辞めると言い出せることはすごいと思い、また舞波らしいとも思った。そしてそのもっとも舞波らしい決断を尊重することと卒業を受け入れることの矛盾にぶつかっていた。

対してBK(僕らの輝き)は息もつかせぬ「かっちょええ!」の連続とは対照的にいきなり空白が訪れる。この空白は誰かがいない空白ではなくて、いることによって生み出される空白。だからほら、耳をすませばほら、波の音…?いや音ではないかもしれない。そこに三人がいるということが、その存在感が、語らないことによって空白をして語らしむ。だからここはあえて推しメンの名は叫ばずに空白に身を委ね、耳をすませば…whisper of the heart.

(℃-uteの日にここで聞こえた「かんなー!」は察するに前日の不在を受けて栞菜を希求する叫びであった。それはそれで空白を埋めんとする願いの発露としてありうる。自己満足で叫ぶこと以上に、そこに叫びの対象となる栞菜がいることが、届くかは別として重要だった。それは不在を追認する名古屋での千聖コールとは対照的に栞菜の存在を際立たせる)

その空白を切り裂くのは栞菜の「涙」。流した汗の量が舞美の青春なら、浮かべた涙の量は栞菜の青春。栞菜が「涙」と歌う時、いやがうえにも栞菜の涙を思い出し、やっぱり涙が出る。

歌詞中繰り返される「毎日〜」には「かっちょええ!」同様の物尽くし的な詞構造も見られるが、それが何のために尽くされるのかといえば、「涙が浮かぶよな夜中」や「なかなか起きられない朝」をなんとか克服せんがために反芻する心持ちだとみる。

そしてここに「かっちょええ」という語に集約されていく直線的な構造とは別に、BKには一度挫折したのちの、それでも困難に立ち向かおうとするために指向すべきベクトルが「勇ましい輝きの方」「美しい輝きの方」として示される折線的な構造に気付く。

このような差異だけでなく、好きから始まるヒーローは何が好きなのか、いつでも好きでとにかく好きなものとは何なのか、それを明示しないのは、すべてを包括する「かっちょええ」に通じ(つまりなんでもいい)、それが最初に両曲が通ずると感じた「後列」の奥底にあるゆえんなのだと考える。
posted by sleeping mizuki at 01:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 【レビュー】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なんだかんだで栞菜ベクトル


寸劇終わりの暗闇に颯爽と現れたのは、一際目立つ赤いシルエット。あれは栞菜!本当に栞菜ベクトルやっちゃうよ〜!

さぁこれで問題は千聖と栞菜のどっちがデフォなのかということだ。それともさらに変えてくるのか?日替わりベクトル?放課後ツアーは全7日間。6人が持ち回りで務めたあとの千秋楽、寸劇が終わった舞美とハギティはなぜか袖に引っ込まずに舞台上に残る。暗闇の中セットされたスタンドマイクの前に立つ梅さん。そこに残りのメンバーも出てきてイントロと共に一斉に6人が向ける指先は梅さんへ。「ふんっ!」PA卓にはいつの間にか栞菜が腰かけていた。「それでは1曲目!」「梅田えりかさんに…(涙)」「歌ってもらいましょう!」「通学ベクトル〜!」梅さんうずくまって泣いちゃうみたいな。使ったタオルいかがですか〜?お願いバカヒロ。このためだけに札幌まで来て。電車で。「秋が終われば冬が来る ホントに早いわ」秋の終わりの千秋楽、一足先に冬模様な札幌にこれ以上ふさわしい歌詞はない。あれ?曲変わってない?それとも7日目はsheだから(問答無用)逆回りしてもう一回札幌からツアー始めるっていうのもよくない?どうせ冬の予定なんて℃-ute以外ないんだから。ファイナル大阪、みたいな。Buono!が無理だったらロビケロッツでいいじゃん。ガキさんと光井が忙しいなら二人だけでも。二人で歌うならせっかくだからNSでも。

これがもし日替わりだったら栞菜ベクトルはもう二度と見れないかもしれない。全力で目に焼き付けておこうと思って栞菜の方を見たら、ちょうど栞菜の顔の位置から後ろにある照明が青い光を煌煌と放っていて栞菜の顔は明滅するその光の中に少しも見えなかった。その青い光だけはとてもよく覚えているのに。

栞菜の顔を見たのはその少し前、頭上クラップの波の上に浮かんで見える栞菜で、それはオームの群れにまみえるナウシカのようだった。赤い服を着ていたナウシカはオームの血を浴びて青く染まる。照明は栞菜の赤を青く染めるかのように少し強めに光っていた。ツボってない時の栞菜はイメージとしては一番近いような気がする。何かよからぬものを背負っていそうなところが。梅さん?梅さんはそうだなぁ、飛行船から吊るされてるちっちゃいオーム?ぶっといクギとか刺されてて全然至って健康じゃないじゃん。

後ろのヲタが叫ぶ。「えりかんにゃ〜!」。新しいカップリングの誕生。これで93年組でNSを歌ってないのはなっきぃと熊井ちゃんだけ!歌ってるのは栞菜だけとも言う。
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℃-uteのエッセンスとしての栞菜

「いつもコンサートをやるたびに自分は歌が好きだなって思ってたんですけど、今日のライブで℃-uteが好きなんだなって思いました。そしてこれもみなさんがいないと経験できないことなんだなと思いました」

「みなさんがいないと経験できないこと」

そうだったのか?僕らがいないと栞菜はアイドルをやっていけないのか?僕はただ℃-uteがいるからそこにいるだけなのに。アイドルとヲタ、どちらが先か。おそらく結論なんてない。ただ、神は人間によって作られながら人間より先にあるものとされるように、アイドルもまたヲタにとっては自身の存在基盤にもなりうる。そうなるとまた「アイドルは神なのか?」ということになるんだけど、少なくとも人間ではないように思う。

このコメントは、栞菜にとって前回の欠席を経た初めてのツアー参加の場でなされることでより大きな意味が生じる。もしかしたら栞菜は一人離れて自分のいない℃-uteを想像していたのかもしれない。加入する前の自分がいない℃-uteを知ってるから余計にそれは気になったりするのかもしれない。自分がいないのに「℃-ute最高!」なんて言われたら℃-uteにとって自分はなんなのかと。

戻ってきて℃-uteが好きだと言えるのは、自分の存在が℃-uteに必要だということを自分で確認できたからなんだろう。人から言われるのではなく自分でそう思えるところに、人から何を言われようが栞菜がもう℃-uteには絶対に欠かせない存在であることを思う。「℃-uteが好き」という言葉からは℃-uteを離れた外部からの視線があったことを読み取る。
posted by sleeping mizuki at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 【ライブ】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ツボINな栞菜


あげ子登場時の栞菜、あれはだんだんとツボっていく栞菜ではなくて、とっくにツボっている栞菜が必死にツボから這い出ようとしている姿だと思う。浅いツボは入りやすくもある代わりに出やすくもあって、それで栞菜はなんとか踏み止まっている。ツボってると言えばたぶんその前の夏ドキの時点で梅さんが少しでも視界に入った時点ですでにツボっているように思う。

あげ子に怯えてあとずさる栞菜には、鏡の中から出てきた夏美に背を向けて誰よりも遠くへ逃げていたイシゾーの姿が重なる。夏美の方を見ながらイシゾーにつられて下がるノリマツが、栞菜をかばうなっきぃに見える。あなたは誰?私…私は…。イヤッ!梅さん?梅さんじゃないよね?この子…この子なんでこんなに梅さんにそっくりなの?私ヤダッー!えりかちゃんじゃないよぉ〜!(泣)あなたは誰?どこから来たの?どこだっけかなぁ?私…誰かが「使ったタオル」って言ったような気がして…。

ツボった栞菜を見ているうちに、気が付いたら自分が栞菜にツボってた。
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名古屋の忘れ物


昼も夜も開場間近なのにロッカーの1120番が空いてるとか、舞波誕ゲトー!とか言ってがっつく舞波ヲタはいないの?…いるわけないよね。じゃあ僕が独占しちゃうよ。ところで910番はあったのかな。

ない!ない!私のタオルがない!ない!絶対ない!ちゃんと忘れないように柵に結んでおいたのに!そのまま忘れてきちゃうなんて…バカだーっ!願います!願います!そこの丸顔のお嬢さん!そのタオルを一瞬貸してください!あ、泣かないで!ウソ!借りません!願いません!ていうか今日はいないんだっけ…。イヤー!転がるのヤダー!タオルなくてどうやってスタンディングを乗りきるの?このあたりお店なんてないのよ、一軒も。ところがあるんですな目の前に。昼と夜の間にサクッとグッズを買えちゃうとかさすが℃-uteコン。

でも高くね?今さらだけどタオル一枚に2500円とか高くね?一度買ってるはずなのに何で気付かなかったんだろう。値段も見ずに買った自分と失くしてる自分とまた買ったりしてる自分、全部怖いよ。人間見たわ〜。それにしても使ったタオルを忘れてくるとかどんだけー。でもこれでタオルの売上が上がればきっと梅さんも次のゲキハロでハトミカよりも重要な役をもらえるんだ。いやだからハトミカはいらない役ではないと何度言ったら…。

「はなぷん」は栞菜との「NS」に。入れ替わる「きら」の方に目が行ってしまいがちだけど、ここでのもう一つの魅力はパートナーに合わせて全く別の顔を見せるまいまいだということに気付いた。気付いたわりにはよく見てなかったので次から見よう。
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2007年09月22日

平衡する次元


きら☆ぴかはきらりとひかるのユニットであって、小春とまいまいのユニットではない。あくまでも前提にアニメキャラとしてのふたりがあり、アイドルがアイドルを演じるというメタ構造はきらり単独の時と変わっていない。ならば今ステージに立っているさっきまで℃-uteの萩原舞だった少女は一体まいまいなのかひかるなのか。

それがやはりまいまいが演じるところのひかるだった時にさらに問題となるのは、きらりの位置に収まる栞菜にはまいまいがひかるとしてアイドルがアイドルを演じるというメタ構造をとりうるのと同じようなキャラクターが与えられていないということだ。もし栞菜がここで℃-uteの有原栞菜としてNSを歌うのならば、まいまいはひかるとなってメタ構造をとりつつも隣の栞菜は栞菜のまま、その次元に齟齬が生じる。栞菜は何者としてステージに立っているのか。

8月6日(月) 有原栞菜

土曜日は旭川でイベントをやりましたあ−◇◆

小さい子がいっぱいいて、さすが!!
「きらりん」ですねえ(・∨・)
たくさんの方々が℃-uteの事を知ってくれたんじゃないかな?
ッて思いました!!
「CUTIE DIARY」

きら☆レボのひかる目当てで来たと思われる子どもたちを見て言ったこの言葉には、密かなるまいまいへの羨望が潜んでいると感じる。栞菜が憧れていた理想のアイドルとは決して今のようなものではなく、それこそアニメの中のきらりのような世界であったかもしれない。栞菜は現実を見た時に少なからぬとまどいがあったはずだ。現実を直視できなかったはずだ。クイーンズスクエアで見た栞菜はあらぬ方向を向くならまだしもその目は閉じていたように思う。

その栞菜が今NSを歌う。さすがきらりんと言ったそのきらりんの位置に栞菜がいる。そこにはアイドルであるはずの有原栞菜がさらにその理想のアイドルを求めてNSに入り込む姿がある。いつかの憧れやっと少しだけ叶えられた。このふたりのNSに関して言えば次元は片寄っていなかった。まいまいはひかるとして、栞菜はいつかの憧れの姿になってその高い次元から僕を見下ろしていた。

わたしが青なら、君は赤。そう、赤い君は有原栞菜。
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永遠の長さ


考えてもいなかった
恐ろしい事が
起こりました(^-^;
そ…それは
体育での出来事。
25分間
永遠に走り続ける!

かのんのいちごのツブログ 2007/9/18
「いきなり恐怖体験(?)(343つぶ目)」

「25分間永遠に走り続ける」というこの矛盾に満ちた叫び。永遠とは一体どれくらいなのか、こんなにもあっさりと答えが出てしまった。花音にとっての「走り続ける25分」はもはや永遠。永遠は永遠であってその長さを知ることすらできないから、時として25分にもなってしまう。きっと場合によっては1秒とかそれ以下にもなりうる。もっと突き詰めれば時間が止まることこそが永遠になる。また動き出すまでは永遠に止まっているのだから。夏の一瞬に感じる永遠とはそういうものなのだろうか。今この瞬間が永遠に続くんじゃないかというワクドキと、同時に感じるのは永遠に続いてしまったら…という少しの恐怖心。花音は体育の時間にその恐怖を見つけた。

そういう意味では時間は測定できない。「時計ないけど」が含意するもの、「そんな無理矢理な計算は成り立たない」の深奥には「時間の長さは関係ない」つまり時間測定の不可能性があった。

「大好きだけど本気の恋だか 測定しようもないし」

「大好き」でも「本気の恋」かどうかは測定してみないとわからないと言う。それにかぶさるように続く

「全部青春なのね」

測定できないものこそが青春だということ。1時間半という測定不能な永遠をまた走ってこよう。会場の中と外で流れている時間は違うし、ステージと客席で流れている時間もきっと違う。

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2007年09月18日

千聖の輝きの方へ


「YES!しあわせ」の「二人で手と手合わせて」では本来なら横を向いて千聖と手を合わせるはずの舞美は正面を向いて手の平をみせていたけど、めぐ恋の「パパもママも 知らない間に」でなっきぃが千聖と手をつなぐシーンでは、千聖がいるときと同じようにフリをしてなっきぃは千聖の方を振り向いた。そこにいるエアチッサーを。

「JUMP」では「直前のパートを歌っている者が続けて歌う」という(ハロプロの?)代替の原則らしきものの通り、まいまいと栞菜がその穴を埋めてゆく。

何にも【萩原】
代え難い【岡井】→【萩原】

特にこのパート「代え難い」をまいまいが代わるということ。代え難きを代える時、やっぱりその場にいて偲ばれるのは今この瞬間は今この瞬間しかないということ。

悲しみ【萩原】
微笑【岡井】→【萩原】
未来へ語り伝えたい【鈴木】

そしてこのパートをキューティーガールズが歌っているということ。キューティーガールズのコンセプトはここにあるんじゃないかという勝手な思いこみをさせてくれる。「悲しみ」というよりはシニカルな哀愁で、「微笑」というよりは苦笑だけど、小学生と中学生の日常を「未来へ語り伝える」、つまり忘れないでおく。ステージと最前の間にある空間を挟んで、流れる時間が違っている。「未来へ語り伝える」とは僕らに伝えるということなんじゃないだろうかか。「未来はいつも此処にある」というのだから。

問題となるのは前後がユニゾンであって代替者の予測がつかず、いまいち取りづらいタイミングゆえに合ったときの一体感が半端ない「wao!」。CDで聞いたときは栞菜に聞こえたのでずっとここは栞菜だと思っていた。キューティーショーのDVDでもこのパートは歌唱者が映されておらず(そこには栞菜が映っているというのに)依然として栞菜だと思っていて、千聖だと気付いたのはわりと最近だったりする(それにしてもキューティーショーが、℃-uteの初めての単独コンが今や終盤での定番となったJUMPから始まるというのはなにやらすごいことに思える。初めと終わりが同じならばそれはつながって輪を描き円環となるのか。「℃」の「。」のように)。

だいたい現場で確認といってもただでさえJUMP、なおかつこのへんになってくるともはや前後不覚に陥って視界には確かに捉えているのに映像ははっきりと再生できず「もう誰が歌っててもいいよ!℃-uteが歌ってるということにしとけば!」とどうでもよくなってしまうので今まで何回JUMPを聴いたかわからないけどついぞしばらく気付かなかった。それでは「聴いた」とは言わないのかもしれない。

ただそれこそが現場の醍醐味でもあり、昔日の横浜アリーナセンター50列なんていうまさに取って付けたパイプイス席で(外周とか花道なんてもちろんなし)、思いっきりジャンプした時にだけ人波のはるか向こうに一瞬垣間見えるシルエットが辻だか加護だかどうしてもわからない時、辻でも加護でもなく「辻加護」を見たんだと自分を納得させることができたのは、それが少なくともどちらかは確実に見ているというそこでしか得られない事実であったからだと思う。

「℃-uteの誰かが歌ってる」。それはグループの醍醐味であるかもしれない。その曖昧さ、不透明さこそに「1+1+1+1+1+1+1=7」では済まされないそれ以上のものが生まれてくる余地があるように思う。乗算であり相乗効果、ストップ高のさらに向こうのトップが見える。

もとい、「wao!」だけはどうしても気になったのでハの字ジャンプもそこそこに6人全員を視界に入れて気を確かに問題のパートを待った。そこで大もて間奏のジャンプのごとくにふわっと舞ったのはいつも千聖が飛び出す方向とは逆、左端にいた栞菜。単に自分の聞き違いから始まったことではあるけど、ここを栞菜が叫ぶことがなんかうれしかった。

しかし栞菜は一方で「That's」の千聖パート「でもって(3回目)」を飛ばしていた。体に染み付いたリズムを変えるのは難しい。「プロなら忘れるな」と言う気には到底なれず、かといって甘やかすのでもなく、どうせなら飛ばした歌詞の裏側にあるものを見てみたい。それというのもこの時の誰も歌っていない静寂に冷たい空気を感じたんだ。会場全体がそういう空気になっていたのかはともかく、自分はその時感じた冷たさが少し怖かった。

例えば同じく「That's」で愛理も歌詞を飛ばしていた。一瞬「誰だ?」となるけど照れ笑いして愛理が途中から歌い始めることで安心感の内に外れた軌道はすぐ元に戻る。「まっさら」で舞美の声がかすれたこととも違うし、機器の故障で音が出なくなった夏夏の中野とも違う。

ところが千聖パートを歌うべき栞菜が歌わずにいると、そこにできた空白は現実に千聖がいない空白として眼前に迫る。静寂だから聴覚ではなく、初めからいないのだから視覚でもなく、それがまさに埋められない空白として胸に迫ってくる。こんな形で千聖の不在を意識しようとは思わなかった。

さらに栞菜は「JUMP」でも千聖パートを飛ばしていたような気がして、飛ばしていたのなら「どれもこれも自分の青春」であるはずなんだけど、もっと最後の方であったような気もして一向に定かではない。いつもライブ直後に襲われる、歩いてると記憶がボロボロと落ちていくような恐怖感がこうして現実のものとなる。飛ばしたのは栞菜本来のパートであったかもしれないし、栞菜が飛ばしたのではないかもしれない。ただあの場では確かに「栞菜が千聖パートを飛ばした」ということを事実として受け取っていた。むしろ千聖の不在はこちらの方に強く感じたはずだったのに。

いつも悩まされるのは、「現場の事実」は「現実の事実」ではないのかもしれないということだ。それを克服するためには全公演DVD化してもらうしかない。それでもまだそれは記録にしか過ぎなくて、大きく記憶を揺さぶられるほどの現場衝撃はふっと湧いてすぐに消える。そこに何を見たのかがいつも気になる。そしてそこから始まった神秘はいつも分析不能なままに終わる。

2回目だからということもあって大阪よりも明らかに盛り上がっていた。JUMP2番サビ直前、なっきぃの「ハイ!イチ、ニ、サン、シ!」のカウントアップがかき消されるくらいの怒号のような歓声に包まれていた。だからこそあの静寂は余計に空恐ろしくて、そこにエアですらない千聖の不在を見た。何もない空白を見た。それは暗闇のようで怖かった。しかしまたこの曖昧な記憶を交えた空白こそが、何物かが生まれいずる間隙になりうるのだと信じる。6人で7人目を呼ぶように。
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2007年09月17日

「放課後のエッセンス」名古屋千聖パート変更点


「EVERYDAY YEAH!片想い」

今日も会えるといいな【鈴木】
初めてなんです(1番サビ)【梅田】
繁華街にいるかな?【鈴木】

「夕食準備 手伝う日時間」での岡井―中島のガッツポーズは萩原―中島。

「美少女心理」

なんだか悔しいけれど【中島】

「That's the POWER」

結果的には【有原】
陽が差す方へ 進もうよ【有原】
でもって(3回目)【有原】

「As ONE」

純粋に愛を育む【矢島】

「YES!しあわせ」

恋してる感動ね【中島】
人はいつもさみしい【中島】

「僕らの輝き」

勇ましい輝きの方へ 美しい輝きの方へ【鈴木】

「JUMP」

悲しみなら時間に消えるから【萩原】
微笑【萩原】
どれもこれも自分の青春【有原】
(間奏)wao!【有原】
代え難い【萩原】
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2007年09月14日

℃-uteという時間


ステージ上に散乱する時計のモニュメント。ぐんにゃりとひしゃげたその時計を見るとどうしても有名な絵画に思い当たる。その絵画の意味するところが何であるかはまったく不勉強の極みであって、そう言えばドラえもんがタイムマシンで移動するタイムトンネルにもあんな時計が描かれていたよねぐらいしか思い出せないんだけど、とりあえず言えるのは「放課後のエッセンス」は「時間」がテーマになっているらしいこと。

リストバンドの時計、「タイムカプセル」をモチーフにした寸劇、そしてステージの時計、それらに見る放課後という時間。止めるのか、巻き戻すのか、早送りするのか、繰り返すのか、いずれかはわからないけど、だいたい時間は忘れるためにあるのか刻み込むためにあるのかそこからしてわからない。「時が経つのを忘れるほど」楽しかった時間が「胸に刻まれる」とか。寝るキューにあったあの繰り返しの時間は何を意味するのか。ベリーズが空間なのかはともかく、℃-uteは時間を突き詰めてきた。

「時間」という言葉をよく口にしていたのはむしろまあさだった。いつぞやのくまぁずだったか、それはまだくまぁずという名もないころだったか、DVDマガジンでダリの画集を見ている図があったような気がする。

舞美のセリフから始まる新曲が始まった瞬間、下手寄りの時計は「C」、上手寄りの時計は「。」に光る。位置関係が逆な気もするけど、それはステージ上の時計がそれぞれ違う時刻を差すのと一緒ですべては形を成さない混沌の中にある。いろんな時の間隙に何を見るのか。そこには複数の時間がパラレルに流れているのかもしれない。いくつかの岐路を通ってきた℃-uteには「仮定」というもう一つの時間がある。もっともわかりやすいのは「もしめぐがいたら」と「もし栞菜が入ってこなかったら」。今日はそのもう一つの時間を擬似的に体験できる日でもある。

友理奈の欠席に居合わせた熊ヲタは決してがっかりすることはない。不在によって友理奈が無言の内に語ることがきっとあるから。そこにいるはずの友理奈がいないことによって何がどう変わるのか、いつも友理奈がいる場所にいるヲタなら何かしら感じるところがあるはずだから。それは推して知るべし。

ツアーの初日からメンバーが欠けるということ。それが許されるということ。そこまでして参加する学校行事といえば運動会か修学旅行ぐらいしか思いつかないけど、単独コンではなくイベとはいえ、あの時と今は違うとはいえ、かつて夏焼が学校の草むしりで遅れそうになった事実を思えば行事の内容は推測しても無駄だ。

出演者は℃-uteしかいないんだからできることなら欠けないでほしい。しかしなおおそらくはそれが許されるメンバーと許されないメンバーがいるらしいことは誰にでもなんとなくわかる。それなのに許されない方だと誰もが疑いもしなかった一人はもうこの場にはいない。それを思えばこうして一日ぐらい休むのは…と妥協したところで座長のお出まし!

中島「エッセンスにはバニラエッセンスなどの香料と、ものごとの本質という意味があるそうです。学問の秋!」

℃-uteの本質とは何か。きっと答えは出ないと思うけど放課後をめぐって追いかけてみよう。それを知るには℃-uteにあって本質ではないものを取り除かなければならないんだけど、じゃあ本質ではないものとは何か。もう早速わかんない。それはわかったらつまらないかもしれないし、わからないことが本質かもしれないけど、本質とは「変わらないもの」だと信じていつどこの公演に行ってもそこに℃-uteとしてあるものだとすれば、いつどこの公演にいっても℃-uteの本質に触れることができるはずだ。一時的に栞菜がいなくても千聖がいなくても永遠に誰がいなくなっても変わらずそこにあるものが℃-uteの本質と言えるだろう。

「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」

ならば旅人もまた行き交う時間となりうる。℃-uteを探す時間の旅へ。

栞菜はいらない子、と言われるためにも必要な子。というとかわいそうなのでまぁぶっちゃけ、いやぶっちゃけなくても栞菜は℃-uteに絶対必要。やっぱ栞菜は必要るんじゃないか。無駄なモノってなあに?たとえ歴史がどうなろうとも今の℃-uteは栞菜がいないと成り立たない。そりゃ一日ぐらいは成り立ってしまうかもしれないけど、そういう一日はなんか足んないとは痛烈に感じた。

古語「愛し(めぐし)」は東北方言「めんこい」の源にもなった語でニ通りの意味がある。

めぐ・し 【▽愛し】

(形ク)

(1)たまらなくいとおしい。
「妻子(めこ)見れば―・し愛(うつく)し/万葉 800」

(2)かわいそうである。いたわしい。気がかりである。
「人もなき古りにし郷にある人を―・くや君が恋に死なせむ/万葉 2560」

「infoseek マルチ辞書」

第一義には現代の「かわいい」という表現に通ずるものがあり、果ては「萌え」にまで近接する可能性もあるとか。「萌え」もまた感情を表出する言葉であるから、「萌え」とは何かを探るとき古語にもその手がかりはあるかもしれない。

そして二義には「かわいそう」「いたわしい」と続く。いとおしいあまりにかわいそうなのか、かわいそうなあまりにいとおしいのか、この語の両義性は脱退以来めぐの持つ二面性だと思っていたけど、「℃-ute」はもともと「かわいい」という意、「めぐし」の第一義でもある。そして第二義にはそこに栞菜が当てはまるように感じた。

それは言わば℃-uteの二面性として。といっても表と裏ということではなく、栞菜は負を背負っているとかめぐの裏返しとかいうわけでもなく、℃-uteの持つcute(かわいい)に内包されるものとして。栞菜の見せる沈んだ面持ちはどこか℃-uteのcuteさにもつながっていくような気がして、それは℃-uteのかわいさだけを見ていたのでは見ることのできない、栞菜を通して見る℃-uteだと思う。ちなみに、形を変えて今なお方言に残る「めぐし」という形容詞はさらに形を変えて意味も変えて「めぐめぐする」という動詞としてごく一部の間で使われている。多くは希望の助動詞「たい」を伴って「めぐめぐしたい」となるか、さらに付加疑問の形を取り「めぐめぐしたいんでしょ?」となる。

「ディスコ クイーン」や「僕らの輝き」を全員で歌うときに、その「全員」にもちろん今日だけは栞菜は含まれていないんだけど、「栞菜を含めた全員」と言うときにそこに「℃-uteは7人」だというとっくに突き付けられていた当たり前の事実をようやく認められたような気がした。意地の悪い失礼な見方をすれば℃-uteは常に一人を欠いていると言葉の上では言えるけど、栞菜の一時的な不在から切望した「全員」はそんな考えを許さなかった。そこにはめぐは含まれず、めぐはただ不在という位置を占めるのみだと。

BYE BYE 今日という素敵な時間
BYE BYE 私の贅沢なあなたとの時間

これは絶対に止められない、巻き戻しできない、繰り返せない、忘れられない大切な時間。2年という時間がめぐってもなお。それと同時にいま脳内を℃-uteがかけめぐっているのもまた贅沢なことに思う。

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

今で言えばこいつは遠征ヲタだろう。しかも徒歩とかその気合は半端ない。終着の地大垣が後の世に遠征者の中継地点になっているとは知る由もなく芭蕉は大阪御堂筋で没したとか。そして今そこから始まる神秘を、神の秘するとも言う℃-uteの本質を、不能を前提に可能な限り分析してみよう。「生きるという力」や寝るキューで強く感じた「涙」という用意された答えはあるけど、NON NON簡単じゃつまんない。

「時計ないけど」

今度はそう言われることはなく、ステージは時計だらけになっていた。この一日が相当濃ゆいのは、ステージにある時計の数だけ時間を過ごしているから。その膨大な時間のまさにエッセンスとして1時間半のライブがある。
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「放課後のエッセンス」大阪栞菜パート変更点


「EVERYDAY YEAH!片想い」

授業中もノートに【萩原】
一歳上のあの人【萩原】
どうしたらいいの?(大サビ1回目)【梅田】

「わっきゃない(Z)」

何にも出てこない【梅田?】
※「ごっつんこ」はステージ上手寄りで中島・鈴木

「美少女心理」

友達だよあの人は【矢島】
もうはしゃいでる【梅田?】


これで限界!夜は記憶なし!DVD出して!
posted by sleeping mizuki at 01:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 【ライブ】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007/9/9(昼夜) 【℃-uteライブツアー2007秋 放課後のエッセンス】 Zepp Osaka


さぁ!僕らの座長がオンステージだ!最後までゆっくり時にはピョコピョコ(JUMP)楽しんでいくからねー!Here comes ℃-ute!(栞菜除く)

梅田「放課後の教室、夕焼けが映る窓を開けてみたら…鳥だ!飛行機だ!梅田!」

ちょうど来る途中に大阪の地下鉄でみたコピーを思い出してしまった。梅田wingなんとかとかいうマンションの広告にあったコピー。

「人生に梅田という翼を」

まるで梅さんのMCを聞いて作ったようでもあり、このコピーを見て台本を書いたようでもあった。

当然梅田界隈にはその名があふれていて、なかでも目を引いたのが阪急梅田駅近くにあった「梅田ダンススクール」の怪しい看板。これを見てUFMSの「みんなも梅田えりかや鈴木愛理みたいになろう!」という言葉を思い出したのは、このコピーがいかにも怪しさに満ちているのとすぐそばにかっぱ横丁があったからだと思う。梅さんになるのと愛理になるのとではかなり違うような気がする。テンションあげ子といい、ダテにタオルにENJOYとか書いてない。

「都会っ子 純情」は歌詞もまだよくわからないけど、今言えるのは「純情ってわかんない」という叫びに対して何を返すのかということ。遠くからでも探すでもなくなっきぃがわかる。そのくらいにダンスがキレていた。

わかりやすい黄色の梅さんがいるのに「あいりー!」とか叫んじゃったよ恥ずかしい。イントロだけでもうテンパってたのに二人出てくるとか愛理がいないとかもうわけがわかんない!通学ベクトルは愛理ソロでガチだと思ってたのに。奇をてらった組み合わせではあるけれどこれを決して一人では歌わせないところに愛理の(スタッフの?)意地を見た。

逆に愛理は正攻法とも言える「FIRST KISS」ソロ。目新しさがない分愛理の声だけを聴くことができる。ノリマツの演技が歌に与える影響を確かめてみたい。ちなみにスタッフのTシャツには「℃-rew」って書いてあるんだよ。何これカッコいい。「キュルー」って読めばいいの?なんなら僕らはaudien℃-e?オーディエンキュー?

で、名古屋で千聖がいないということは通学ベクトルは栞菜?栞菜がやっちゃう?かんにゃ?かんにゃ?そしてボーカルは元の鞘に収まっていつか愛理と栞菜、いやノリマツとイシゾーで通学ベクトルとかやってくれたら、しっかり食べた朝ごはんは次の日カレーだし「普段は自転車通学かな?」と聞かれれば「電車で!」と答えるしかない。「期待しちゃって眠れなくって二度寝しちゃったじゃない…」にも当然あのセリフで返す。よくよく聴けば一番は天気予報にワクワクする前夜、二番はこれから会えるかもしれないドキドキで、雨の昼と夜に起こりうるおよそすべてのワクドキが詰まってる。

ライブで聴くのは初めてなのになんではなぷんをがっつり踊れるんだろう。倫理的な観点から横浜BLITZイベを回避したはずなのに(心はちゃおっ娘)、これをがっつり踊るのは倫理的に間違ってるとは言わないのだろうか。ふと見渡すと周囲にはここで躊躇する姿が見受けられた。いくらなんでもこれは…というとまどい。でもダメだ!引いちゃダメだ!どんな時も前向きだよー!ホラ!スナップきかせればホラ!見えない世界が見えてくるー。

「はなは流れてピロロンピー」をリピートする千聖が普通にハマっていた。あの千聖に真面目な顔して(遠くて顔はよくわからなかったけど)「ピロロンピー」ってリピートされると、おそらく本人も意識していないであろう「ピロロンピー」の意味が見えてくるような気がするからすごい(気がするだけ)。きら☆ぴかは解散してもちさ☆ぴかで続ければいいんじゃないかもう。

ただ、きら☆ぴかはNSで表されるふたりの対照性が重要なファクターになっているのに対して、千聖とまいまいはちさ☆ぴかに限らず何でもしっくりきてしまうんじゃないかとは思う。その点ではやはりくま☆さきとかゆり☆なきの線を検討課題としたいところではある(どっちも同じ)。

で、名古屋で千聖がいないということはこれも栞菜?栞菜がやっちゃう?かんにゃ?かんにゃ?プロレストリオかよー。もうデスコも夏ドキも栞菜が見たい。栞菜の一人コンサートの曲目だけでもぜひ知りたい。

どちらも昼公演、なっきぃは「ENDLESS LOVE」の冒頭で頭を後ろに反らしたときに髪飾り(カチューシャ?)が取れそうになってあわてて押さえていたり、「夏ドキ」では舞美が間奏で両膝をついてのけぞるときに勢い余ってマイクを持ったほうの手をついてしまい「ガンッ」て音が聞こえた。

寸劇でも正しくは「アイス食べたあとどこで走る?」を舞美は「走ったあとどこで走る?」と言っていて、昼公演で初見だったにもかかわらずこれは明らかにどんだけーだったし、またそれを受けたハギティの「走らない!」も「まず最初に走らないしそのあとにも走らない!」という二重のツッコミになっていて、いきなりハードルが上がったように思う。

思えば舞美は寝るキューの初日でも鏡から出てきて「若浩」と言うところで「バカヒロ」と言って吹き出すという千秋楽からしたら考えられないようなミスを犯していた。ただそこからだんだんと神がかってくるわけだから、始まりはこんなもんで上等じゃない!きっとこれからビシッと仕事できるとこ見せつけられて僕は帰りに頭を下げることになる。ハードルとか言っとけば舞美は喜んで越えていきそうだから。

リズムがあれば 踊り出せる♪(寝る子はキュート!寝る子はキュート!)

美しい星に 包まれてる♪(大人に頼るな!大人に頼るな!)

都会の暮らし ちょこっと忘れ♪(ドリンクメニュー!ドリンクメニュー!)

大地に芽吹く 花木のように♪(次の日カレー!次の日カレー!)

「まっさら」で「今度はそっちー!」と言われたらこう叫ぼう。

「そちらはどちらー?」

曲が進むにつれて自信は確信へと変わっていった。アンコール前に来るか?それともアンコール明け?でなければラスト?℃-uteコールがこだまする暗闇に突然大もてのイントロが響いたとき、全く反応は遅れたけどこれでラストにはわっきゃがくることを確信した。ダンスは省略ver.。確かにみんな疲れてるのがわかる。でもここは踊らせてもらう!勝手に踊ってんの!そう!勝手に踊ってんの!私設ね!アンオフィシャルね!長かったわ〜!これでやっとこの夏のわっきゃ不足が解消!

蒸しかえる空気の中でバヤリースを飲み干すと、まばらに生えた雑草から草の匂いがした。

「夏の匂い!」「ん、したね!」

もうすぐ夏がくる匂いともう夏が去っていく匂いは似ているのかもしれないね、イシゾー。
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℃-uteの次の日


この日は誰かが辞めると言い出す日らしい。それが一国の長であれ一アイドルグループの後列端であれ、徴候があったにしろわからなかったにしろ、その重みを比べることはできない。

ざわつく党内部に騒然とした市原を見る。後任が取り沙汰されるなか、結局舞波の後任なんていなかった。誰も代わりはできなかったってことだ。する必要もなかったってことか。

夕焼けを背景に据えた党本部の映像が、燃え上がる炎を思わせて政変を予感させた。外に出て見上げた夕焼けはあんなにきれいだったのに。2年前は雨が降っていて、今年は夕焼けを見れたということだけでも時間の過ぎるのを思う。

そしてこの日が毎年℃-uteの日に続いてやってくることがうれしいのかうれしくないのかなんだかよくわからない。思い出しか残らない夏が過ぎて、いろんなことを思い出してきた。
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2007年09月06日

声なき声


不思議なんだ。聞こえるはずのない声が聞こえるんだ。

「タイムカプセル」から聞こえてくるのはどう聴いてもめぐの声なんだ。画面に映っているのはパートを引き継いだなっきぃであり栞菜なのに、一体どういうわけかめぐの声が聞こえてくるんだ。

つまりはキューティークイーンの音源を使っていると思われるんだ。だとしたら現場の時点で違和感を感じていてもいいはずなのに、そうでないのは現場で流れていたそれとDVDに収録されているそれとは違うということ。おそらく現場では7人で歌っていた「タイムカプセル」に編集の段階で8人ver.の音源がかぶせられている。

もとからして口パクで歌っていたのかもしれないし、安全策として収録のあるこの日だけ口パクにしたのかもしれない。しかしDVDのこれは口パクというのともまた違う。空白を音源で仮装するのではなく、本来あったはずの7人の声を消してまで8人ver.の音源を用いているのだから。事の真偽は今となってはわからないけど、ただDVDスタッフのプロデューサーに塩田さんの名を見つけるときに、8人ver.の音源を使うということが限りなく意図ある行為に思えてくる。2学期直前、なんか急ぐようにめぐに触れたのもその意図に基いてのことだったのかもしれない。

「子どもたちはキュートです」
「じゃない、℃-uteたちは元気です」
「じゃない、子どもたちは元気です」

この錯綜するルーム長のセリフは、いま舞台にいるのが劇中の人物そのものなのか、演じている℃-uteなのか、素の℃-uteなのか、それとも立ち返って一人の人間としてのキュートな中島早貴であり有原栞菜なのかわからなくなるところから発せられると思っていた。

それは特に千秋楽の涙の中で強く感じたことで、あのとき舞台上で泣いていたのは深く役に入り込んだ結果でもあり、同時に℃-uteであることをあの間だけ忘れていたからだとも思う。

℃-uteが℃-uteでないように思えたのは、それに加えてセリフも歌もすべての演技が塩田泰造という創造者の息のかかった今までに見たことのないタイゾープロデュースの℃-uteだったから。

そこにはめぐの姿ではなく、めぐを見つけようとする塩田さんの姿が見える。塩田さんはサンシャイン劇場にめぐの声を響かせたかったのかもしれない。しかしながらそれができなかったときにこうしてDVDに潜り込ませることができるのはやはり塩田さんしかいない。作・演出はダテじゃない。「桜チラリ」は舞台のために用意され、「タイムカプセル」は舞台上の℃-uteのために用意された。

ここに至ってもはやDVDは一回限りの公演を忠実に記録するためのものではなくなった。そこには今までにもあった編集というレベルからさらに踏み込んだ意図が介在している。ただその意図が僕らの目線により近いということがそれを「逸脱」ではなくあくまでも鑑賞に耐えうる作品として、そこまでを含めて作品としてかろうじて存在させてくれる。「タイムカプセル」には舞台上のそれを忠実に再現するのではなく、8人の姿を重ね合わせるという恣意が介在しているけれども、その恣意は決して私的なものでないことは僕らがみな同意するところにある。これはこれで舞台とはまた違う作品に仕上がっていると言えるのだ。

Q:キューティークイーンに入っている曲で一番お気に入りの曲は?

村上「“タイムカプセル”何回も聞きたくなっちゃう曲です♪」

「ポケモー ℃-uteスペシャルQ&A」

塩田さんにも一番好きな℃-uteの曲を聞いてみたい。きっと「タイムカプセル」だと思うから。

塩田さんが言いたかったのはこういうこと?

いつからそうなのか記憶にないのも含めて「全部青春なのね」と。突然に別れなくてはならなかったことも、それがとっても悲しかったことも、全部。

ね!

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2007年09月02日

きみとぼくと℃-ute


オーロラビジョンに写ったNTTのCMのかわいい女のコ・・「♪あれもしたい これもしたい♪」ってイイ笑顔で歌ってる。アレ?!このコはひょっとしてひょっとして以前ハロープロジェクトに所属してた村上愛さんじゃなかろうか!?(20分くらいお会いしたことがあるんです)そっかぁ、がんばってんだなぁ!・・なんておもってひとりでジーン。。とかしてみたハチ公まえ・・新垣結衣さんでした。

『ムギムギデイズ』 8/30 「ここさいきんのこと」

ガッキーとなっきぃと北乃きいを間違えても(字面だけ)めぐとは間違えないよ、塩田さん。しかも「20分くらいお会いしたことがある」ってそれなんてパシイベ?聞いてないよ!いつそんなイベあったの?またあのゲリライベってやつ?もしかして平塚?remember hrtk?

2月には℃-uteと顔を合わせてはいるけど(「ムギムギデイズ」2/11および6/23参照)、当然その時めぐは過去の人。やはり脱退以前に接触していたということなのか。しかも断定はできないものの文脈から察するに℃-uteとしてではなくめぐ個人と会ったかのような印象を受ける。あの〜僕も会いたいんですけどどうすれば…。

「以前ハロープロジェクトに所属してた」というのは婉曲?それはそうなんだけど他でもない℃-uteですよー。座長を務めた℃-uteにいためぐですよー。見間違えたにしろめぐを認識していたということは寝るキューはそれをふまえて作られていた可能性がある。それを探し出すためにも早くDVDの方をください!℃-uteは7人だったのに演じる役は8人だったとかねぇ。

夏美は結局星になってしまうんだけど、塩田さんは7人の℃-uteにちゃんとお別れをさせてあげたかったんじゃないかな。なんにも言わずに立ち去って、なんにも言い返すことすらできずにいるのを見て塩田さんもまたこれじゃダメだと思った一人だったのでは。そのダメな世界を芝居で変えることができる、すばらしい仕事です。

作中の人物をして作家が自身を語らしむるように、塩田さんは劇中の人物に自分の視点を投影していたのかもしれない。登場人物の名前に演者から1文字を付けたということ。正直1文字ではいまいちインパクトに欠けてアナグラムぐらい仕込んでおかないとヲタは喜ばないんだけど、石津奏(いしづかナで)には栞菜から1文字が取られているとともに、イシゾーには塩田泰造(タイゾー)から一部が取られている。「イシヅカナデ」には「悲しい(カナシイ)」とか「静かな(シズカナ)」は入っているけど、どうやっても「イシゾー」にはならないから何かおかしいなって思ってたよ。

かなしくってかなしくってかなしいとき、やっぱりかなしいって塩田さんもいうのかな。自らを投影した石津奏のアナグラムは「カナシイデヅ…」と言っている。イシゾーの目線はタイゾーの視線でもあった。二人の視線は重なってこちらを見つめてくる。

taizo-ishizo.bmp

そうやって劇中に自らの視点を取り込むとともに、一方で客席からの目線も忘れない。塩田さんは我々目線で劇を作ってくれている。奇しくもその名にあるように。ね、しヲタさん?決して自らの作中に溺れることなく外からの目線で作り上げた芝居をイシゾーに託した目でもう一度角度を変えて内側から吟味する。イシゾーはアイドルになる夢を描きながら何を見ていたんだろう。たしかめたい、たしかめたいことがあるの。DVDの方を!早く!

「悲しくて悲しくて悲しいんだよ!」
「うれしくてうれしくてうれしいんだよ!」

あの独特のくどい言い回しはそれぞれ別の者に向けられていたようだ。劇中のセリフ相手、客席、そしてもう一人…。くどいけど、ううん言わせて。

「ノリマツ!愛だよ!愛!」

そしてなにより、めぐはタブーだどうのという自縄自縛に陥りがちな風潮をあざ笑うかのような軽い切り出し方。大人の事情はきっと知っている。だからこそこうやってさらっと書くあたりに大人の余裕を感じさせる。ん〜カッコイイ!飲み干す夏の味は大人の麦茶!

ゴルフ雑誌のインタビューなのにさりげなく愛理に触れる亨のように、こんなふうに風を切るごとく軽やかにめぐを語ってみたいね。

「そうそう、僕の娘はアイドルタレントなんですが」

「週刊ゴルフダイジェスト」 2007 6/12号

もう一つ大切なのはめぐも寝るキューの存在を知っているであろうということ。塩田さんがめぐを知っているんだからめぐが寝るキューを知らないはずはない(根拠なし)。きっとめぐもDVDを楽しみにしているよ。一緒に夢の続きを見よう。でさ、めぐの夢ってなんだったの?
posted by sleeping mizuki at 22:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 【寝る子はキュート】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする