2008年02月27日

蹴飛ばすもの


ライブともなれば泣き虫おっさんが大量発生するのは目に見えている。しかしそのおっさんは知っているのだ。ホロ苦の青春も、時が経てばBuono!と言えることを。

「かなしみを蹴飛ばしていこう」

チッサーはボールを蹴るようでかなしみを蹴っているだとか、パスされたかなしみをまいまいはしっかりキープするだとか、ワンツーで返したり、ときにはかなしみをスルーするだとか、梅さんはいつもそのかなしみを受け止めきれずに後ろに反らしてしまうとか、まあさはかなしみを正面から受け止めるけど投げ飛ばすのがおぼつかないとか、渾身の力を込めてしなやかに舞美は蹴飛ばすけど何を蹴ったのかわかってないとか、なっきぃは相手の股に通すくらいかなしみコントロールがうまいとか、友理奈はかなしみが足につかないとか、千奈美はただ単にかなしみをもっと強く蹴飛ばしたいと願い、雅はかなしみを蹴飛ばしたと思ったら一年前の自分だったとか、体が小さい桃子のかなしみは相対的に大きくなり、キャプのかなしみは少し小さくなったとか、愛理は蹴飛ばすタイミングを計りかねて結局かなしみを見送っているのだとか、梨沙子はかなしみを蹴飛ばす気なんてさらさらないとか(一体梨沙子はかなしみをどうしているのか)、栞菜はかなしみをうまく蹴ることができないだとか…。

それはかなしみに打ちのめされながらも相手ゴールに叩きつけるスポーツなんだとか。蹴飛ばせるものなら蹴飛ばしたいかなしみがこの世にはいくつあるというのか。

かなしみを蹴飛ばす前に舞波は普通じゃないアイドルから普通の中学生へと自らの人生に蹴りをつけて、めぐはかなしみに蹴り負けて泣いていた。

そういう思い出はここに置いておくとして。また振りむいて後ろをみてる。この場所を飛び越えていくためにはまず足元を見なければ。過ぎてく日々は決しておとぎ話じゃないし。それは別の曲だし。舞波とめぐの胸のバケツは大きめですか。
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来夏のバケツの水


来夏ならボヤを消すバケツの水。

怒って投げつけたバケツはミヤブーに拾われて、鏡を拭くチョウさんが使っているように見える。見送りに行けなかった来夏から夏美へのはなむけのバケツ。火を消す水は鏡を拭く水へと。交わらないはずの一人二役における唯一の間接的な接触。あの家に夏美の面影をとどめるものはあの鏡しかないから。

夏美の音はスズメバチの羽音に続く風鈴の音色。あれは若い命が玉と散る音だった。星になって応援してるけど。
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そこにある力、底力


ミスショットに悔しがる韓国の選手に対して、リードを奪われてもラケットで顔をあおぐ泰然としたさま。そこに刻まれた眉間のしわが年齢に似合わない威厳すらをも醸し出す。舞美風に言えば「刻んだしわの深さが私の幸せの深さ」か。愛ちゃんは「キャワ」ではなかったけどカッコよかった(応援してるかすみんはキャワ)。

9-10からの逆転勝利は℃-uteヲタでなくても息を飲む。「最後の2本のために練習してきた」と言う監督。9-10までは行けるかもしれない。しかしそこから先に差が出ると。

監督は最後に言った。「魂を込めて」。球技のボールは全き魂。緊張の糸を綱渡りする選手に時代も年齢もない。

一球入魂、弱気は最大の敵

…と、元卓球部は語るのであった。かすみんのメガネはどこへいったの?
かすみん!かすみん!ぼくのクダギツネ!
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2008年02月25日

バケツの水の音


泣いても笑ってもたまるバケツの水ってなんだろう。単純に涙でもないようで、舞美なら汗、でもやはり栞菜なら涙、愛理なら頭の皿の水。「告白の噴水広場」からは響く鼓動にかき消されていた噴水の音が聞こえてきそうだし、栞菜はこぼれた水たまりに踏み込んでいく。

雅の胸のバケツは小さめだというので、きっとあふれやすい。ココロの中にあるというバケツの水。バケツが小さければ、あふれやすい代わりにそれだけココロに余裕ができる。胸が豊かなら包容力があると言われるけど、豊かでなくても、バケツは小さくても、それを入れとく心は大きい。という、これは雅へのそうあってほしいと願う半ば願望。雅「ちゃん」と呼びづらくなって久しい。雅「さん」とも呼びにくいし。熊井「ちゃん」とは明らかに違うニュアンスを感じている。

「あたしの胸のバケツはきっと小さめだろう」

あくまでもバケツが小さいのであって、胸が小さいとは言っていない。しかしバケツの小ささは胸の小ささであるとも理解できる。つまりそこには解釈の自由性があって、では愛理が歌っていたらどうなのだろうと。逆になぜ愛理は歌っていないのだろうかと。雅ちゃんよりはあるから、という問題ではなく。

愛理:私は、<泣きたいんだよ 嬉しいんだよ>の、“自分がちょっと心にためてた想いがあっても、こらえて笑顔でいよっかな” みたいな感じのところは…ありますね。

「BARKS」Buono!「恋愛ライダー」インタビュー(1)

「泣きたいんだよ うれしいんだよ」は「泣きたいほどうれしい」ということではなくて、「泣きたい」を覆い隠す「うれしい」だったんだ。愛理の言葉がなければわからなかった。この歌詞の意味も、愛理がそんなことを考えていることも。そこで「バケツの水」に立ち返れば、

「うれしいほど空しいこと etc」

の意味もまた見えてくる。「うれしくてうれしくてうれしいんだよ!」はたたみかけるような偽りのないうれしさ。Buono!の愛理はついた嘘を少しだけ教えてくれていて、うれしいの先にあるものは…うれしくてうれしくて空しいんだよ!「うれしい」が胚胎する憂い。

「こらえて笑顔でいよっかな」

このとき愛理の胸の小さめのバケツには滴が落ちている。「いよっかな」に込められた迷いと強がりが、みんなのバケツに滴を落とす。

桃子の涙は単に拭き忘れたシャワーの水か、バケツにしたたり落ちる滴か。桃子に心から泣かれるのは怖い。それが嘘でないことをどうやって見分ければいいのか全然わからないから。今までを全部嘘か、全部本当かにしないと目の前の涙の意味がわからない。

こんなきれいな月夜は…バケツの水に月が映ずる。絵にするならこういう場面。このアルバムで最も美しい景色だと思う。「溜息橋で月を吐きをり」の少年はもたれた欄干に眼下の月を見た(のだと思う)。それをまるで体内にあったかのごとくに「吐く」。バケツの水に浮かぶ月は心の中にあってどうやって見るのだろう。どういう言葉にすればいいのだろう。

背を向けて体育座りする愛理の傍らにバケツの水。こぼした水面に散る月夜。星も応援してるけど。…こういうとき言葉は頼りないと思う。なんとでも言えるけどなんにも見えない。I WISH 絵が描ければなぁ。「耳をすませば」の聖司は原作ではバイオリンを作るのでなく絵を描いていた。

「今日は少しだけ水をこぼして軽くしました」

全部こぼしてしまってはだめみたい。バケツに何も映らなくなる。なくならせず、あふれさせず。絶妙なバランスの中で生きてるあたし。バランスをとりながらというよりは、おそらくは崩れそうなバランスを寸前で持ちこたえながら。

水の音は『あたし』の音。自分だけのココロの音。自分が何者かを確かめるための、自分のいる場所を探すための。

あしたはどこ(にいるのか)?
―今日いる場所と明日いる場所は同じじゃない。

あしたはどこ(にあるのか)?
―本当に明日が来るのかわからない。


(参考)

母売りてかへりみちなる少年が溜息橋で月を吐きをり

寺山修司「花札伝綺」
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2008年02月24日

第A成長記の終わり


卒コン見たら影響されて、やや時を置いて始めた物語、気が付けばなんだかんだで2年が過ぎているのであります。

卒業まではとりあえず過去の分読まないつもりとはいかず、その卒業が起点にあるものだから、とりあえず過去ばかり見て終わりがない。

「いつか大人になった朝に」

大人になったといえばもうとっくに大人になっていて、それは思ったほどには寂しくはなく、むしろジンギスカンを絶賛する周りの反応がうれしかった(NSD)。いつかPVで濃い目のコーヒーを一気に飲む日も来るんだろうね。そのときはもちろん、あの角曲がればほらCafe Buono!。カフェで話す真剣を。

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PV「ジンギスカン」


とりあえずベリーズの前にあるものには目をつぶって、後ろにある花鳥図を見てみれば、「付き片」のPVと合わせて花鳥風月がそろったね。

中華模様と聞けばハピネスのPVしか頭にない旧式ベリヲタ脳なので、懐かしくそのころを振り返ってみると、まずみんな子供。今回のPVで言えば幼稚園児の側に近くさえある。でもそれはさすがに無理のある熊井ちゃん。いやあのころはまだまあさが一番背が高かったはずだね熊井ちゃん。ハピネスのPVといえばそのまあさが肉まんを2個食べたことしか思い浮かべられない。実際メンバーもその話ばかりしていた気がする。千奈美の髪が長い。雅ちゃんが金髪。桃子は桃子。舞波がいる。

秋風の中に
満月の光で

よくよく聴いてみればハピネスにも風月はあった。華も実もあるベリーズだもの。本当にあのメロディに永遠を誓えていたのかと問われているよう。

ついにハートのギターを携える桃子。正月のハロコンでギターをやりたいと言っていたときにはすでにこのことを知っていたのか、はたまたそのときはまだウクレレを持っていただけなのか、定かならず。ただこれだけはわかる。桃子!桃子!ぼくのぴーちっち!英語なんてひっくり返せばいいんだよ!桃子が描くピーチの絵は、ひっくり返すと羽の生えたハートになると。どこかに飛んで行ってしまわないようにいつもは逆さになっている。ブラックホールかはたまた悪魔将軍か、黒いハートの風穴に何が見える?心の中を見ないでほしい。
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2008年02月23日

Whisper of the Buono!


耳をすませば、Buono!が聴こえた。

バロンには離ればなれになった恋人の猫がいる、という雫の創作は意図せずして現実をなぞっていた。バロンの瞳に悲しみを見ていた雫。そこから生まれたのは文字通り「バロンがくれた物語」。

「追憶の中にしかいなかったバロンを、雫さんは希望の物語によみがえらせてくれたんだ」

劇中でのフィクションは、生きるという力以外の何物でもなく、劇中での現実を乗り越えている。創作は現実に端を発し、ふくらんで現実に干渉する。

干渉されることもあって、例えば映画でのムーンは原作では黒猫になっていて、作者自身が語るように(※)それは執筆当時に公開されていた「魔女の宅急便」の黒猫ジジに影響を受けるものであったと思う。しかし映画化に際しては同じ黒猫だということでの配慮か、原作の黒猫は太ったノラ猫(それは原作続編での、猫の図書館長ムタのイメージに近い)に変えられている。ジブリ映画から得たキャラクター設定は、ジブリで映画化されるがゆえに変更を余儀なくされるという、創作と現実の相互干渉。

「お前を乗せて坂道登るって決めたんだ」

朝日を見るなら坂を登り、夕焼けを走るなら転がり続ける。カントリー・ロードは、別々の道を歩みいつか一緒になろうと誓う朝焼け一本道。そこへ行くいつもの自転車は、「好きだ」から「結婚しよう」へと飛躍してやまないまだ青い自転車。

今、Buono!に耳をすませば、聞こえるのはかなしみを蹴飛ばす音、バケツの水がこぼれる音、どこかで聞いたような電子音、扉を開ける音、もしくは閉める音、草を食む音、心奥からの衝動メロディ、がらくたが坂を転がる声、声にならない愛の音。

(※)柊あおい「耳をすませば しあわせな時間」(りぼんマスコットコミックス、集英社、1996)
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ジタバタ生きてるぜ


赤点なのに完璧だと言えばそのギャップが隙間となって入り込む余地もあるけど、完璧だと言ったら本当に完璧になって入り込めなくなりそうで、そのためだけに完璧だと言いたくないような「Cafe Buono!」。

アイドルソングに偏見を持っている全ての人々に告ぐ。聴け!

アイドルソングに偏見を持っていない全ての人々に告ぐ。買え!

アイドルといえば確かにそうだけど、違うといえばそんな気もする。なんで生きてるのか?生きるって何?答えは出なくても、自分に問いかける力。Cafe Buono!に「生きるを問う力」をみる。そんなこと語れるほど生きてないと言うけど、知らないがゆえに実は何の緩衝もなしに生死と直結しているころでもあるのだから。

もうヤダと思ってたライブハウスでこれは聴きたい。聴くというよりも、汗まみれ涙まみれになってバケツの水をこぼしてみたい。
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御魂へ


寒さが底を打った日、後輩の訃報を聞いてしまった。ものをよく知っている人だった。サブカルは大塚英志、ラジオなら伊集院、スポーツなら野球、好きなのは選手時代の広岡達郎だとか、そんな人。アイドルなら加藤夏希、ちょうどポカリのCMをやっていたころ。こっちの世界も少しだけ知っていた。話が合わないわけがない。「早熟の人だった」と言われた。

悲しい酒に逃げるより、手が伸びたのは「Cafe Buono!」。こんなときにアイドルなんて。軽い、いかにも軽い。なんともしようがなく軽い。軽くて軽くて軽すぎる。それゆえ時には重い現実をひらりと飛び越えることもある。いっぱい話した思い出がひらり。

そうやって飛び越えることができたとき、たかがアイドルごときに、重さではない重みがのしかかる。現実が乗り越えられない現実を、フィクションは乗り越える力を持っているんじゃないかと思うようになった。だからこんなことも言ってしまえる。一人の現実の死をフィクションに語らせる不謹慎を覚悟で。

「子供のときに死んで幸せな子はいないでしょ!子供のときに死ぬのは悲しくて悲しくて悲しいでしょ!」

この世は無常なんてもんじゃない。無情だ。生と死を隔てるものの頼りなさめ。人間なんて簡単に死んじゃう。それに引き換え、生きることの煩わしさ。

「この世を生きるつらさを」

一体あいつらに人の生き死にの何がわかるというのか。なんにもわかっちゃいない。でもそれは自分も同じ。生きてる限り死んだことがないから誰も同じ。となれば誰に言われようと同じ。何を言おうと同じ。その言葉が空疎に聞こえるのなら、そこに実感を投影できていないだけ。ユーモアは絶望の内から生まれるとか生まれないとか。煩わしさの中にある、友情と純情が青春であることの尊さ。

いいこと聞け、悪いこと聞くな。

「努力しないための努力は惜しまない」という彼の言葉を忘れない。かじりたての知識で言うと、君の人生は少しだけ太宰と重なって見えます。後輩と呼べるのは彼ぐらいしかいなかった。三人称単数男性の彼。今はいない存在としての彼―。

見たまえ、フィクションに回収されていった末の、フィクションという名の現実。


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2008年02月19日

forget I‐my‐me not


誕生花には同じ日であっても何種類かがある。これは舞美とまいまいのように同じ日に生まれた者同士でもその個性に違いがあるためにいろんな花が用意されているからなのだろう。

試みに2月7日で探してみればウメやタンポポに並んで忘れな草の名が見える。舞美にはこれがふさわしいかと思いきや、そこは舞美、よく似た違う花の匂いを嗅いでしまったようだ。その花というのは…

「ええ……。なんだっけ」

DORA09.JPG

『ドラえもん』第9巻「わすれろ草」

藤子不二雄が巧みなのは、この道具に単にものごとを忘れる作用を持たせたことにとどまらず、その忘れた隙間に誤った情報を吹き込んで人を誘導する姿を描いたことだ。ドラえもんにはいつも道具の向こう側があるから、大人になるほど面白い。

のび太を殴りにきたジャイアンがわすれろ草の匂いを嗅がされる。

ジャイアン「おれなにをやってんだっけ」
ドラえもん「スネ夫をなぐるんだろ」
ジャイアン「おお、そうか」

一度ならず二度までも。

ジャイアン「なにをするんだっけ」
スネ夫「また!のび太をなぐるの」
ジャイアン「のび太って誰だっけ」
のび太「(スネ夫を指して)そっち!」
ジャイアン「おお、そうか!」

自分を指していても他人を指していても「誰だっけ」という言葉は本当に怖い。そこに生じる隙間には、操り言を吹き込むことなく黙って見てるか笑っていたい。

for−get

何かを得るために何かを忘れる。得るものが多すぎて、忘れることも多すぎる。

もの忘る、ゆえに舞美あり。

何かを忘れている舞美を何かと忘れることはできない。
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2008年02月14日

Hey!brother


「舞波はいつも桃にわからないところとかいろいろ聞いてくれて、すごくかわいくて桃の妹って感じでした」

「みやは、私のお姉ちゃんって感じがする。ホントは逆なんですけど(笑)」

「kindai」2008年3月号

時を越え、桃を介していま雅と舞波が姉妹に。なにこのヘナチョコ三姉妹。今夜はこれでお姉妹波!
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冬のどん底立ち上がる


夏にはいつも頂点を探してる。その夏一番暑いのはどこかって。去年は宇土のショッピングモール前。早朝の待機場所はすでに真夏日の陽ざし。もはやヲタすら並んでいなかった。「ここで待つのか〜…」。そのままうなだれるように夏の頂点に寄りかかった。

あれから半年、律儀に季節はめぐってくる。

17時の鐘が響いても、思いのほかにまだ明るい夕空。寒いを通り越した冬のどん底に、とりあえず…ポケットの中でWピース!!Buono!イベは玉砕したんですけれども!半年後の頂点を目指して。
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2008年02月13日

曖昧と舞美の間で


矢島「去年初めて舞台に挑戦したんですけど、演じているときに役に入り込んでいって、いつもの私じゃないような感じがして、それが楽しかったんですよ」

「週刊ファミ通」2008/2/22・29合併号(No.1001)

「私じゃない」は良平ちゃん。「いつもの私じゃない」と言う舞美はあのとき舞美でなく何になっていたというのか。演じている主体と演じられている客体の溶解、融合、同一化。演じる者しか体感できないプレイヤーズ・ハイとも言うようなもの。矢島舞美は夏美と、来夏と同一のものとなっていた。

更に言うなら(言えるなら)その前提としてオンとオフがあるはずの矢島舞美もその区別はなくなっていた。「小春/きらり」の関係にも見られる、演技者としてのアイドルがさらに役を演じるメタな構造のうち、最初の演技部分が捨象される。

アイドルが演じるものであるならば、そこにはまだ舞美が夏美を演じるという構造が見なされつつ、アイドルが演じるものでないならば、舞美は舞美を演じることなく、夏美を演じている舞美はある意味本当にアイドル(偶像、実体のないもの)になっていたのかもしれない。そう思うと一人二役というのはなんと演じ難いものだろうか。舞美に役が降りてきたり、役に舞美が降りてきたり。それを「神がかる」と言っていた。

茅奈「あなたは誰?どこから来たの?」
夏美「………どこだっけかなぁ…?」

そこには、人間としての舞美もアイドルとしての舞美も存在はせず、ひとり夏美だけがいた。と、「あのとき舞台に立っていたのは誰だったのか?」に少しでも近づけたつもりで。

それは舞台に立つ側からすれば楽しくもあるだろうし、舞台を見る側からすれば演じることへの、演じることによって何かが失われるような気がすることへの恐ろしさでもあり、結局のところそれが寝るキューで見つけた一番得がたいものだったような気がする。

もっとも、舞美は普段から本人は意識することなく、まるで複数の人格があるみたいな、一人の人間の中にある主体と客体のすれ違いを見せてくれていた。

梅田「そういえば、誰か敷き紙まで食べたよね?」
矢島「誰だっけ?」
梅田「舞美だよ!(笑)」

「kindai」2008年3月号

敷き紙を食べた舞美と「誰だっけ?」と言った舞美は別人であるかのように。ものごとを忘れるということは、それだけ多くの人格があることかもしれない。「使い分ける」というと意図的なニュアンスが生じるので、多くの人格が立ち上がって更新される、現れては消える、というか。人格、というのもおおいに語弊がありそうだ。

「kindai」のこの記事に与えられたタイトルが「memoire」(記憶)なのも見過ごすことはできない。記憶とはかくも曖昧であるということを舞美は示している。あからさまに極端な形で。

さっきまで覚えていた舞美ともう忘れた舞美、あるいはもともと覚えていなかった舞美。そのどれもが矢島舞美であることは間違いないのだけど、ひとたび役に入り込むと、矢島舞美そのものがなんだったっけ?とわからなくなる。

「………どこだっけかなぁ…」に加えて、神崎の名を聞いても反応せず、自らの死を自覚していない、果ては「言っても仕方ないことは、言っても仕方ないことだよ」に象徴される夏美の執着のなさは、こだわりを持たない舞美へと通じるものでもある。そこに見るのは、舞美が役作りをして夏美になるという順序とは逆の、確実な存在であるはずの矢島舞美が曖昧な存在の(役にすぎないはずの、また役の上でも曖昧な存在であるところの)夏美によって曖昧にされてゆくという不思議。その怖さ。

役を演じることがあれば、役に演じられることもあるのだろうか。このセリフは夏美にしゃべらされているという感覚。「いつもの私じゃない」という言葉にそんな深意を読んでみる。「なつミ」の「ミ」に込められていたはずの、名付け親が意図した願いをはるかに越え、ことによると舞美の「美」こそ夏美の「美」に由来するのではないかという倒錯に陥る。

舞美が夏美になったと思えば夏美は来夏になったりもし、来夏はまた舞美にもなる。それは三人称単数女性の格変化にも例えられようか。舞美と夏美と来夏の間を揺れ動いてさまよいながら、全ては同じひとつであるはずなのに、どれでもないような不同一感。

麻由「なんでおんなじだったり、違かったりすんの!」
司「なんでなのかは私にもよくわからないんだよね」


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2008年02月10日

ニンジンに願いを


遡ること早三年、ベリーズカレー工房で桃子と友理奈は星とハートのニンジンに願いをかけた。

嗣永「これからもいっぱい幸せになれますように」

熊井「みんなが健康でいられますように」

(「娘DOKYU!」2005/5/7)

二人の願いは叶っただろうか。それはまだわからないけど、なっきぃはいま幸せを歌い、地球の健康を心配している。ということは、その世界中のみんなの何十億分の一かにあたる熊井ちゃんの健康を祈っていることでもある。合コンで休んだりしたら許さないんだから!
中島「今回の『℃-ute鍋』はマルの形にこだわって具を切ってます。私は人参を特別な型抜きでボール状にくり抜きました♪」

「B.L.T.」2008年3月号

ここでの℃-uteの「。」は空を見上げて探す星ではなく、願いを託すニンジンに姿を変えている。なっきぃの代わりにニンジンに祈ろう。桃子と友理奈の願いが叶いますように。
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グツグツ言うな℃-ute鍋


℃-ute鍋を前にしてとりあえずWピースの大根おろし担当。おろしてると舞美が手を拭いてきて大変だったとか。

栞菜のワンポイントリボンが控え目でかわいい。一人でゲームも手を切られるよりはマシ。ネギをマイクに通ベク気分。おふろの順番でモメるのは「誰が先に入るか」ではなく「誰と一緒に入るか」という順番だから(全員と入る気)。

子供っぽいカッコのまいまいに違和感。

腕まくりするなっきぃは俺の嫁!
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2008年02月09日

言葉足らず舞波


「Berryz工房は8人なので、8人で歌います!」

「心の中では8人のつもりで桃がんばるから、舞波もがんばってね」

何を言っても言葉足らず。すべてを伝えきれるものは言葉たりえず。愛して愛して愛して足りないの。でも言葉がないと拙くて何も伝わらないような。足りない言葉を歌にして、伝えたいな舞波。

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サヨナラのあとのLOVE SONG


勧君金屈巵   君に勧む金屈巵(きんくっし)
満酌不須辭   満酌辞するを須(もち)いず
花發多風雨   花発(ひら)いて 風雨多し
人生足別離   人生別離足(た)る

于武陵「勧酒」
コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

井伏鱒二『厄除け詩集』
さよならだけが
人生ならば
また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いている野の百合何だろう

さよならだけが
人生ならば
めぐりあう日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と
ふたりの愛はなんだろう

さよならだけが
人生ならば
建てたわが家は何だろう
さみしいさみしい平原に
ともす灯りは何だろう

さよならだけが
人生ならば
人生なんか いりません

寺山修司「幸福が遠すぎたら」

訳し継がれたこの名詩を、平成に生まれちゃった現代、寝るキューヲタ(昭和生まれ)が素敵だなと思って換骨奪胎。         
           
さよならだけが
人生ならば
また来る夏は何だろう
はるかなるかな空の果て
焦がした胸はごまかせぬ

さよならだけが
人生ならば
めぐる季節は何だろう
ふたりで帰る夕焼の
いつもの時間がまためぐる

さよならだけが
人生ならば
立てた℃-ute旗何だろう
折りたたまれるあのしわに
包まれたのは誰だろう

さよならだけが
人生ならば
それにさよならしたいけど
そんなさよなら人生は
「またね」がないからさようなら

しかし井伏も単に別れをもってのみ人生としたわけではないと思う。『厄除け詩集』で訳した数篇の詩の中で、訳文に「」が付いているのはこの「サヨナラ」だけ。言葉に意味があるのなら、当然「」にも意味を忍ばせているはずだ。

「サヨナラダケガ人生ダ」とはどう違うのだろうか。サヨナラは単にサヨナラではなく「サヨナラ」だということか。では「サヨナラ」とはなんだろう…?別れたその先にあるもの…めぐる季節か知らない朝か。寝るキュー、放課後、CDイベ…。同じ別れでも、それが二度と会わない別れでも、「またね」があるのとないとではずいぶん違う。時間を経れば経るほどに。

この人生を 楽しまずして 何を知るのか(ちょっと字余り)
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愛する熊の名前を銀幕に


ニュースです!熊井ちゃんが映画に出るんです!

kuma-green.jpg

「公式サイト」

目指すは金熊賞!
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2008年02月07日

LOVEイマジネーション


01 桜チラリ
02 めぐる恋の季節
03 都会っ子 純情
04 LALALA 幸せの歌
05 晴れのプラチナ通り
06 スイーーツ→→→ライブ
07 乙女COCORO
08 イメージカラー
09 ほめられ伸び子のテーマ曲
10 ドドンガドン音頭 (テンションあげ子 with ℃-ute合唱団)

「CDJournal」サイト(http://www.cdjournal.com)より



05 晴れのプラチナ通り

℃-uteの通る道。これは青春の大通りとどんな角度で交差するのか。それとも交差はせずに平行するのか。はたまた二本の道は一緒になって、夕焼け一本道へと続くのか。「大通り→プラチナ通り→恋愛ライダー」だったら転落覚悟でその道を駆け出したい。一歩ずつ歩いた青春大通りを抜けてプラチナ通りで歩調を速め、凸凹だらけの夕焼け一本道をただひたすら走り続ける。まだ聴いてもいないのに。雨とのんびりもきっとあるね。(参考:坂本真綾「プラチナ」)

06 スイーーツ→→→ライブ

甘いものは一日2曲まで!いつ eats sweets?

07 乙女COCORO

どこかで聞いたようなフレーズだけど「GOCORO」ではなく「COCORO」。乙女心は濁らない。GではなくCなのは℃-uteだから?軽やかなイメージ。

08 イメージカラー

℃-uteは継続性のあるイベントや曲リクエストなど一貫した販売戦略を持つが、それは決して℃-uteだけに特別に当てがわれたものではなくて、ベリーズの試行錯誤の上に成り立っているものだと思う。そしてその戦略の最も象徴的なものがイメージカラーの固定としてみえる。熊井ちゃんの最初のソロTはオレンジだったし、桃子はピンクから黄色に変わっているらしい。合コンでもおそらく℃-uteはいつもの7色を見せてくれるはずだけど、ベリにはそれとかぶる色があるかもしれない。あるいは意図的に同色で対応させてくるかもしれない。熊井ちゃんがオレンジだったらユニットデビュー間近ということで。

09 ほめられ伸び子のテーマ曲

対になるように思い出すのはAs ONE「やればできる子とか言われサボる奴もいるし」。ほめられて伸びるタイプと叱られて伸びるタイプ。人によってタイプが決まってるのではなく一人の人であっても時に応じてタイプは変わる。最近はほめられることばかりの℃-ute。しかしそれは叱られたことが先立ってある上での、「言われた」ではなく「言わしめた」ほめ言葉。だからアルバムのコンセプト「エスカレーション」が意味するのは「浮かれる」ことでなくこれからも「伸びて」いくこと。

麦は踏まれて強くなると申しますが、「麦ほめ」なんていう儀礼もあることですし。麦踏みには分蘖を促すという植物生理学的な根拠があるのに対して、麦ほめは類感呪術とでも言うべきもので確たる根拠はない。しかしそこに人間の心意が反映されているという点で、ほめるという行為は面白い。ある意味、麦の擬人化でもある。

nksknksk言うのはなっきぃがけなされ伸び子だから。

10 ドドンガドン音頭 (テンションあげ子 with ℃-ute合唱団)

これネタじゃないよね?エンジョイどころかついにドドンガドンまでとられた熊井ちゃん(もともと熊井ちゃんのものではないような気もするけど)。さらにはエンジョイもドドンガドンも目の前で歌われるという屈辱(合コン予想)。ただ指をくわえて見てるわけにはいかない。前へ前へと振り返らずに無言の坂道ずんずん進め!無言が続くけどこのままのまんまでいいの?よくない!猟師にしとめられる前に穴から出ていかなきゃ!でも冬眠暁を覚えず。クマー!起きてクマー!(byノリマツ)起きてさえいれば!起きてさえいれば熊井ちゃんの一分ディナーだったのに!憐れクマー、穴の奥にクマ科メスの痕跡。川下から狙われる熊井ちゃん。クマ猟なんて野蛮なチャンスはやめようよ。

こうなったらもうエンジョイくま子としてなんとしてでもあげ子からの奪還を図るしかない(希望)。クマには犬とばかりにチッサーをけしかけられるだろう。でもチッサーの言うことなんて全部無視!ワンワンじゃわかんないよ!

カッコよくて(梅さん)、話しやすくて(チッサー)、スポーツ万能な人(舞美)はここにいる。それすなわち℃-ute(with 合唱団)。



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「Berryz工房 起立!礼!着席!」 #201(2008/2/5)


度重なるヲタの厳しい目線をくぐり抜けてきた熊井ちゃんだけあって、ストレートを投げつけてもストレートに「おめでとう」なんて言わない。そこで真実に迫るためには、角度を求める計算に補助線を必要とするように、起こりえたであろう事態を想定して補わなくてはならない。

風邪が治った横アリでなっきぃからプリンをもらった熊井ちゃん。それ以来プリンにハマって毎日のように連続で食べてるくらいなので、誕生日も近いことだし今日はお礼にケーキをプレゼント。

クマ「中さきちゃん、これ…」
ケロ「あ、ケーキ?ありがとー熊井ちゃん」
クマ「うん…あの…た、誕生日、おめ…」
ケロ「あれ?これ…犬用です≠チて…」
クマ「…ホントだ!こんなところに小さく書いてある!」
ケロ「なにこれ!バカにしてんの?こんなのいらない!チワ公にでもあげれば?」
クマ「ちがっ、待って中さきちゃん!」

その後、文化放送にて…

熊井「ちっちゃくこれは犬用です≠ニか書いてあんの!」
須藤「わかる!わかる!ちっちゃくね!ちっちゃく!」
熊井「大きく書かないとわかんないよ!みたいな!」
須藤「そうだよ!」
熊井「ね!」
須藤「そんなちっちゃく書かれてもね、ってかんじ!」
熊井「そう!あるの!」

千聖だったらそのまま食べたのにねぇ。

一年前にこの二人のラジオが聞きたいと思ったときには、もっと落ち着いた雰囲気になるのかと予想していたけど、むしろまあさのテンションはいつもより高めのようだった。熊井ちゃんが言うと何ですべて名言に聞こえるんだろう。

「2年生をなめちゃダメ!」(93年世代を代表して)
「矛盾してない?…今カッコよかったよね?」(nkskへのアンビバレンツ)
「ワンワンじゃわかんないよ」(岡井ちゃん何言ってるかわかんない)

まあさの「萌え〜」につられて「萌え〜」とか言ってる熊井ちゃんに萌え〜!文句なしでくまぁずに一票です!それって熊井ちゃんが好きなだけじゃね?友理奈!友理奈!ぼくのイオマンテ!クマが犬を飼うとはこれいかに。


posted by sleeping mizuki at 13:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 【レビュー】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする