2009年02月26日

しばらくが長すぎる


ひどく寒い日2・26。突然舞い込むあの人情報。不意のお知らせ背筋が寒い。℃-uteというグループはどうしてこうも嫌になるほど物語性に富んでいるのかとつくづく思わざるをえない。なかさきが剛ならかんにゃは柔。そのしなやかな動きが力強く踏み出せない足ゆえなのだとしたらそれは悲しい。

「しばらく」っていつまで?期間を定めないお休みが怖すぎる。でもどうせ帰ってきたらまた泣いちゃったりするんでしょ!梅さんいつものフライング、かんにゃにつられてメンバー号泣、それ見たヲタがまた涙。最後にまいまい「みんな落ち着け!」。きっとそうなるに決まってるんでしょ!決まってる決まってる!絶対そうに決まってる!でもそうじゃなかったら…どうしよう。いえどうしましょう?こんなとき。わたくしは…寝るキューヲタとして…。

こういうときこそsheだろshe!これからしばらく6人。でもまるで7人いるみたいにするの。いーいみんな?おととしの放課後初日、あれは本当は今からやることの予行練習だったのさ!7人目の娘を呼ぶためにはあたしら6人が揃う必要が絶対にあったの。だからみんな本気で念じてね!念じちゃう!念じちゃう!念じる!豚汁!舞美汁!春ツアーでは鏡の前でグルグル回る儀式の時間をつくるべき。見える!見えるよ7人の℃-uteが!ごまかし作戦成功だね!イシゾー!愛だよ!愛!

ボーッとしてると不機嫌そうに見られると言ってたね。でもその顔が大好きだから。笑わなくてもいいんだよ。つまんなそうなその真顔にただ憂鬱の影さえ差していなければ。よろセン!でのさげっぷりは見事だった。春ツアーで浮かれて暴走するあげ子を止めるのはお前だけ。

いつになったら会えるとか約束は特にしないのね。いつでもいいからしばらくぶりにまた会おう。長すぎるしばらくをほんの一瞬に感じさせてね。それまでは一緒に外から℃-uteを見よう。でもたまに、いない栞菜を見に行くよ。おつかんなコールするかんな。
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9と10の狭間で


寝る子を語る前に言っておきたいのは、寝る子じゃない℃-uteもそれはもうすごかったということだ。

わっきゃにJUMPにまっさらに。なにあの図抜けたオレンジサンタ。もうなかさきしか見えない吠えればLOVE。ハンドベルの音色が℃-uteの歌声に変わっても、これがあれば次のクリスマスも生きていける「きよしこの夜」。まるで2年前の続きのようだ。あのときセットリストの締めはわっきゃだった。覚えてないけど記録によればそうらしい。それが今年はわっきゃから始まる。メジャーデビュー前のわっきゃには特別な思いがあって、それが今も消えていない。℃-uteのすべてが詰まっているようなイベントだった。

退場の段になり、ここで「白いTOKYO」ですよ!これでもかというクリスマス。インストの流れるなかでメンバーが右に左に手を振り歩く。ここぞとばかりにちぎれるくらいに手を振ったよ。手を振ることがこんなにもうれしいなんて。玉串を振るような魂振る神のありがたさ。ちょっと手を振って沈黙になった。沈黙のまま手を振った。

矢島「それではみなさん、素敵なクリスマスをー!」
全員「せーの、メリークリスマース!」
全員「せーの、℃-uteでしたーっ!」

これに答えるのに客席には一瞬ためらいがあったような気がした。少なくとも一人はためらっていた。実際にはためらう暇もなく、このタイミングに合わせたように声のない「白いTOKYO」はクライマックスへ突入した。

(ずっと大好き〜♪)

あいつの声!うん、したね!

今さらもいいところ、振り返れば奴はいない。でも いつかの憧れ やっと叶えられた。歌わないで思い出を見つけた。

ひいや
ふうや
みいや
ようや
いつ
むう
なな

やあ!

ここにつどう

とんと首尾よく

℃-uteのすべてが…。
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2009年02月22日

生きるという力技、罪に生きるという力


『ふしぎの海のナディア』第16回「消えた大陸の秘密」

生きるという力には、生きるために殺すという力がどうしようもなく含まれて、さらにその死を受け入れるという力をも必要とする強引な力技。ナディアは生きている花を手折って小さな死を受け入れた。

ネモが背負った十字架は、罪に生きるという力。その罪は世界の命と国の命を天秤にかけたこと。「沈める寺院」は「鎮める寺院」。犠牲となった船員を送る詞のはじめを借りよう。

闇の中にこそ花を見よ
そは生きる喜び
花こそは生きる力なり

guilty in the life.jpg

罪に生きるという力―「キューティーぐだぐだがまごおり」をバスの車内で聴いたとき、舞美は早口でたしかにこう口走ったように聞こえた。そこで℃-uteの背負う原罪とは何かを考えたりしてみても、やっぱり℃-uteに罪はないのだった。自分の意識の問題としては、ミニアルバムのあのころにはまだめぐが不在という形として見えるのです。それが罪といえば罪かもしれない。


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2009/2/15【HAPPY!STYLE Communication Circuit 005】表参道FAB


告知はなくてもさかぽんと利奈ちゃんはしれっと出演。そんなことだろうと思ってたよ。利奈ちゃんがマスターしたというGo Girlのフリを見てみようと思ったらどうやら左サイドからは死角になるらしく、ちっちゃい利奈ちゃんが人影に隠れているのか見えない。ならばと夜は右へ行っても姿はなく、結局この曲には出演していないのだった。最後のラブマにも出演せず、曲が終わると坂田くんと一緒に袖から出てくる。もうちょっとこうなんかさぁ、全員でやりましたっていう達成感みたいなのがほしいよね。卒論を書いてたということは卒業するんだろうけど、それに触れることもない。キャリーの進学、麻美の卒業、のっちの編入は報告されていたのに。はぴすたルーキーズという研修生にあって、さらに研修しているみたい。

もしも唯ちゃんの声が出ていたら、夜のロマモーはなかったのだろうか。ひっぱりだこで唯ちゃんの声が出ていなかったとき、キャリーはすかさずフォローして歌っていた。唯ちゃんは喉が弱いのかもしれない。あの声で歌うのは、構造上ありえないことなのだろうか。ぬのセクハラまがいの発言に小さく「ハイ」と返して申し訳なさそうにしていた顔が忘れられない。

雅奈未が相変わらず飛び抜けている。上手いのはもちろん、聴いてて気持ちがいい。もっと聴いていたいと思う。さらにはこれだけの歌唱力を持ちながら、押しつけることなく余裕ありげにさらっと歌うところがいい。一人で突っ走る雅奈未に菜々ちゃんが必死でついて行く、少し偏ったツインボーカルの「White Love」もよかった。去年聴いた「ゆずれない願い」もまだ記憶にあって、やはりこれも「ゆずれない」固い決意とは裏腹に余裕の表情でこなしていた。今聴きたいのは断然「ブルーウォーター」。何の問題もなく歌いこなせると思う。そのときはバックダンサーに利奈ちゃんをお願いします。

まほちゆは邪気の抜けた白いモリサキみたいだった。もちろん邪気があるほうが魅力的だ。しかし黒にも白にも裏はあって、モリサキのように表に出せるブラックではなく、見せてはいけないしみさき的な何かがありそうに思える。

「曲によって表情を変える」とたびたび言うのっちは「メールは返さない」で前歯を見せてにこやかに笑っていた。忠実に歌詞に沿うなら、未練を残しつつも恋を終わらせるという矛盾した心境のところ、のっちは何の未練も感じさせず晴れやかに恋を終わらせた。LOVEメールの春からトロピカ〜ルの夏、そして涙色した夏の終わりへと、あややのデビュー三部作は季節とともに駆け抜けていった。今のっちが歌う涙色は、もうすぐ春が来るように、これから始まる恋の色。能登は白い春の色。

街の色はどうだろう。現場以外では外にも出ない場違いなキモヲタから見ると、表参道は色褪せた色のない、色褪せる色もない、すっかり色のない街になってしまったような気がする。
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2009年02月21日

「ふしぎの海のナディア」〜海の向うの女の子〜


名作とは聞いていながら今まで見ていなかったのは、物語の終盤でわかるような重大なエピソードを悪意のない会話の中でネタバレされてしまっていたからなのだけど、それを知った上で見てもやはり名作だった。

ところどころにエヴァにも通じる特有の描写・文法が見える。特に第14回「ディニクチスの谷」は「マグマダイバー」を思わせて、「底なし」というときの「底」を感じさせてくれる。本来は「マグマダイバー」を見た時点でこちらを思い出すのが順番だけど。

第13回「走れ!マリー」から第16回「消えた大陸の秘密」にかけての、殺生をめぐるナディアたちの葛藤は前半の要所。

子鹿を捕るのは自分の腹を満たすため。敵を撃つのは隣の仲間を守るため。仲間を見殺すのはもっと多くの仲間を救うため。大義はどんどん大きくなって、自分以外の誰かを巻き込んだらそれはもう立派な戦争になる。船を救うために犠牲になったのは運命であると語られて、その犠牲となった船員の名がフェイト(=運命)だなんていうネーミングはタチの悪いいたずらですか。

殺されるのが子鹿から敵、そして仲間へとエスカレートしていくのは、小競り合いが争いに、やがて戦争に発展するさまと呼応している。ムラからクニから国家へと人類が歩んできた戦いの歴史だ。戦争のなかで人が死ぬとはどういうことであるのかを描いているそこにあるのは、単に善悪の二元論で判断できることではなかった。どちらとも決めつけられない割り切れなさ、やるせなさ。フェイトを殺したのは戦争なのか自分たちなのか。各話ともハッピーエンドばかりでない。だからこそエンディングの一節が耳に残って離れない。

「胸の奥のもどかしさ どうすればいいの?」

そうして第17回「ジャンの新発明」に至って、通過儀礼を終えたかのように一人前に近づいていくジャンの姿を見るのである。楽しみでたまらないくせに、好きすぎて見れない病にかかりそう。なんとかして勢いで最後まで見ておきたい。
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「よろセン!」アイドルコンサートの魅力について


なぜ今こそハロプロなのか?

@高い(発送手数料という名の暴利)
A遅い(遅れても早まることはない開演とグッズ列)
Bうるさい(しみずさーきさーん)
C狭い(はみ出してくんだよ通路に)

道重センセイ「あくまでも非現実な世界…異空間を楽しむものなので」

矢島「う〜ん…なんか知っていくうちにだんだんチョットなんかねぇ…」

言葉少ななまいまいの目に不服の色。
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2009年02月13日

まぁなとソフトは世界一


まぁなの得意なスポーツはソフトボール。それというのも群馬はソフトが盛んな土地らしい。ポジションはどこなんだろう。どこにも想像がつかない。強いてあげるなら意外とキャッチャー。ささやき戦術が似合いそう。

「憂佳ちゃんはカーブを打ったよ」

そうささやけば、かにょんは絶対カーブ狙いでくるはずなのでそこへズバンとストレート。矢島先輩はささやきとか通用しないので気をつけて。「走る」が得意なあやちょは代走。でも一塁からホームスチールしそうで心配。野球の走塁は速ければいいというわけではないのです。賢いチーズ様はボール犬ですよ。唯ちゃんは社長なので監督に。あやちょを投手にコンバートして対舞美に備えるべき。考えれば考えるほど舞美の術中。ここは何にも考えてないどうしにやらせて成りゆきを見守りましょう。事務所に搾取されないでまぁなに直接栄養費を渡したい。

野球の詳しいこともきっとわかるはず。前橋・高崎のセンバツW出場についてチーズを交えて語りたい。桐一が優勝した大会を一試合ずつ振り返ってみるのもいい。県勢初の優勝は上毛かるたの新しい札になってもいいくらいのできごと。かろうじてまぁなも生まれているし。県民はみな八木節を乱舞して夜を明かしながら、群馬野球の夜明けに酔いしれたものだ。

(参考)「今日は何の日?エッグの日!」2009/2/13
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寒桜の道


高校合格の翌日に桜の記事を持ってくるとは、まさにキャンバスを桜色に染めるがごとく。モリサキのこの道はとなり街の寒桜の道。舞美はこの道をガーッと行ってなき仔もそれについていく。チッサーのこの道はあの街に続いてる気がするカントリーロード。夕焼け一本道を走っていた三人は、一年たってこの道を歩いてく。その先には春がある。
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「ドラえもん のび太と鉄人兵団」〜雲の向うの女の子〜


どう記憶を遡ってもまともに見るのは20年ぶり近いというのに、セリフも展開もはっきり覚えていて全然懐かしくなかった。作品の内容がどうのこうのではなくもはや己の人格の一部とさえ言える刷り込みの域。傍らにレプリコッコを置いていたのかもしれない。

この作品を見ているときの97分の短さは異常。ちっちゃい子が飽きてしまわないようにとこれでもかと詰め込まれているのはこの作品に限らないが、今見返すと詰め込みすぎの感すらあって、ふくらまそうと思えば5時間でも6時間でもいけるし見れる。しかしそれはしないしできない。ゆえにこの97分に一切の無駄がなく、見終わってすぐ最初からまた見れる。

微笑みながら振り向いて「撃って!」と叫ぶリルルの気持ちは子どものときにはわからなかった。のび太の臆病さばかりを歯がゆく思っていたあの場面は、悩み揺れ動くリルルを描いてもいた。揺れ動くということは心があるということだ。任務を遂行するためだけなら「撃って!」とは言わない。あの笑顔は本当に撃たれることを厭わない笑顔だった。地下鉄の闇の中から、それはすなわち心の底から、リルルは這い上がってくる。藤子先生自身もこの作品をめぐってはいささかの迷いがあったようだ。最後にリルルを出そうか出すまいか…。「死んでしまったら会えない」から、再び会えたということは、リルルは決して死んだわけではなかったのだ。

ラストシーンは原作があっさりしすぎて物足りなくなるくらい、アニメの方が優れている。ていうかもうアニメじゃない。心の中にいるってことがこういうことってよくわかる。そもそも当時は原作だけに固執していなかった。映画を見る楽しみが薄れるから、コロコロの先行掲載は見ようとしなかった(それでも誘惑に負けて見てしまったことはある)。原作は原作で面白く、アニメはアニメとして楽しかった。なのにどうして日付を重ねて変わったの?新ドラは原作を追いかけるあまりアニメの楽しさを失ってしまった。旧ドラが深く心の中にある者にはそう見えてしかたがない。作画は原作に近づけつつもキャラは明らかに原作とは違う方向へ向かっている、このへんに違和感の原因があるのかもしれない。アニメを見ていても越えられない壁が立ちはだかるようでその向うに原作が透けて見える。見れば見るほど原作のすばらしさばかりが見えてくる。

所詮原作は越えられないのだから、頼るのはもうやめて新ドラのオリジナルで勝負するべき。寝る子を越えるのは寝る子だけであるように、旧ドラを越えるとしたらそれは藤子先生だけ。だからもう永遠に、あのころのドラえもんを越える作品は現れないのです。と言って新ドラを全否定しようとも思わない。だってドラえもんだから。一つだけお願いしたいのは、あまりに大切すぎるから鉄人兵団はリメイクしないでほしいのです。これから見る子どもにもこの鉄人兵団をすすめられるように。年寄りの傲慢であるとはわかっています。スタッフや声優はみな旧ドラを知るはずだから相応の気概を持って臨んでいることだろう。その姿勢を尊んだうえで、一視聴者として勝手な言い分が許されるならここに断言しておきたい。これを上回る作品は絶対に作れないと。新ドラは新ドラのオリジナルを目指せばいいじゃん。それで20年後におっさんが泣くような作品を作るんだよ。なんでこんなに言うかわかる?ドラちゃんのことだから言うんだよ?

前半に夕焼けのシーンが三度見える。一度目は三人が秘密を誓うとき。それからのび太が二重に秘密を誓ってしまうとき。そしてのび太が重い秘密を胸に抱えて歩く学校の帰り道。ここでの夕焼けは決して美しいものではなく、斜陽か落日といった風情ののび太の沈んだ心の様相だ。そのあとのび太は三回徹夜している。三回朝陽を見ているということになる。それはすべて地球の危機を救う戦いからの夜明けだった。夕陽をおいかけて朝陽にたどりついた。どんな時も朝が来るよと。もちろんこの作品の良さとはこんなところにあるのではない。さも発見でもしたような自分はずいぶん無駄に年をとってしまったようだ。

一説によると「E.T.」(1982年)って一部に「のび太の恐竜」(1980年)へのオマージュが見られるという一説を聞いたことがあるけど、そんな一説のように想像をたくましくしてみれば、鏡の向うから出てきた女の子が過去と対峙し望みを遂げて空に帰っていく流れにおいては、リルルと夏美は軌を一にしている。

最後に教室の窓に姿を現したリルル(のような女の子)。はたしてあれは自ら新メカトピアの建国に身を投げて消えてしまったリルルと同一なのかという問いがある。歴史が変わったのだから全く同一であるはずはないが、変わった歴史においての変わったリルルであるには違いない。どちらにせよ、そこに夏美を見るならばこの一言は言っておきたい。

リルルにそっくりなあんたが!今!生きていることが!

(いまひとつ問いかけておきたいのは、帰ってきたリルルはなぜしずかの元へ現れなかったのかということだ)

タイ旅行のみやげにもらった現地の鉄人兵団を持っている。おそらく海賊版だと思われるこの一冊は、印刷行程上の事情によるのか、すべてのページが鏡に映したように左右が逆転していて、装丁も本来は右開きのはずが左開きになっている。作品中において「鏡面世界」が大きなテーマであったことを思うと、作品まるごと逆世界のこの版はメタフィクションそのものだ。本の外形が内容に干渉している。左右が逆になった日本列島を見て鏡面世界のトリックに気付かれるコマの絵も、日本列島は正しい形のまま。あのシーンはゾクゾクする。なんだあれは!メカトピアから観測した地形とまるで同じではないか!…これではストーリーが進まない。一筋縄ではいかんぞ。ラストシーンは加筆修正前で初出時の月刊コロコロと同じもの。

見た勢いを借りて言うならこれが一番好きな映画です。ドラえもんの中で、じゃないよ。アニメーションの中で、でもないよ。この世のあらゆる映画の中で、「のび太と鉄人兵団」が一番好きです。この世のあらゆる映画をまだ全部見てないけど、見なくてもわかるくらいに。

そしてやっぱり曲がすごい。イントロが聞こえた瞬間、風がひと吹き通り抜けるように、何かが飛び出してるだろこれ。もうなんだか言葉にできない、あふれる感情という何か。涙が出ないミクロスでもわかるようなそれ。

リルルはロボットが人間を虐げることに疑問を感じ葛藤しながら、自らが消滅する道を選んだ。しかしリルルは人間になりたかったわけではなく「人間のような心を持ったロボット」に生まれ変わりたいのだと言った。ロボットであることの誇りは失うことがなかった。正確に言うと持ちつづけていた誇りの意味が変わった。リルルには涙の出る装置はついていないはずだからあれは装置で出る涙ではない。雨の降らないメカトピアでも愛せるようになったのだろう。

「まるっきり人間の歴史と同じ」道をたどってきたメカトピアは、ロボットのゆえにか変わることができた。かえりみて地球はというと、そんなに劇的には変われないほど人間は少々複雑になりすぎてしまったのだろうか。鉄人兵団から救われた地球が本当に救われなければならないのはこれからだと、内容とは関係なく思った。リメイクするくらいならいっそ続編を作っちゃいなよ。

不思議なあやちょと似ているところを探すとすれば、黄色い服を着て、羽があるみたいに飛んでいくことだった。二人とも不思議だね。

リルル、リルル、ぼくのロボット天使。。。

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「よろセン!」クルクル積み木たて競争


舞美の涙の正体は、汗として分泌されるべきものが遠心力によって目から押し出されたというところだろう。頬を伝うほどの涙なんてそんな…。

みんなで回すことになったのに一人張りきるまいまいがどう見ても私怨です。しかしそれをも上回ってチッサーは野生児だった。岡井ちゃん必死だな!
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2009年02月11日

熊井ちゃん奇跡の新記録?


テレビ東京系「よろセン!」内で開催された「超短距離走1m選手権」の収録において、熊井選手が世界新となる0.0000を記録していたことがこれまでの調べでわかった。本人の談によると「Readyの時点ですでに頭はゴールしていた」とのこと。この競技の主催者でもある岡井選手は「矢島に勝てばそれでいい」と気にするかまえを見せないが、他の参加選手からは「短距離走なのに走ってないからずるいケロ」との声もあがっており、巨熊参考記録として放送については保留される見通しだ。
posted by sleeping mizuki at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 【ノーカテゴリ】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月10日

あんなふうに呼ばれてんの


立春をすぎたある日ふと、日が長くなっていることに気付く。まだこんなに明るいのかと。同じようにページをめくったある日ふと、梨沙子が変わっていることに気付く。もうこんなに大人なのかと。

年齢を知らなかったら、この写真を見て14歳とは思わない。豊かな胸がアンバランスではなくなってきた。中身は子供というけれど、それをいうなら僕だって子供だし。いつだって見た目で大人と決められてしまう。星空には雲があるほうがきれいだと言って、冬の海は静かで寂しい感じがステキだと言う。梨沙子が言えば冬の海もメルヘンチック。

「記念品にペンとかももらって嬉しかった♪」

「万年筆を買ってもらった」と歌う歌詞そのままに大人になっていく。それから梨沙子は大人の階段登ったみたいな夢を見たというのか。

たしかに急には大人にならない。でも大人になったと気付くのはいつも急だ。いつか大人になった朝に熊井ちゃんを呼んだりしたりして起こしちゃう。

「学校の方がちょっと強気かな(笑)」

メンバーでは最年少の梨沙子がクラスでは最年長。そこに意識せずとも強気な自分が現れるのだという。待望のケログラビア、じゃなくてソログラビアとなったなかさきの口から語られたのも同じようなことを言っているように思われた。

「一時期よく、千聖と(萩原)舞と(有原)栞菜がプロレスごっこをやってたんですよ。で、ハロプロのライブの時、いつものように3人がキャーキャーやってて、そのうち、よく見たら梨沙子も一緒になってやってたのには、ちょっと驚きましたね(笑)」

梨沙子は意図して態度を変えるのではなく、あくまでも自然なふるまいの結果として、年上に接するときと同年に対するときでは心持ちが違ってくるのだろう。なかさきは梨沙子を、プロレスごっこをするような子だとは思っていなかったようだ(この言葉には、穿ってみれば本当は自分もプロレスごっこをしてみたいという本音が隠されているような気がしてならない)。

ガースーの呼び名には、ほのかに悪意が込められつつも同時にゆるぎない抱擁力を感じさせて、今の梨沙子にぴったりだと思う。寒い冬に暖かそうな梨沙子。少女のか弱さから女性の美しさへ。あるいは母の強さへと。そんなことを言ったらまあさはおばあちゃんになっちゃう。いずれ人の親になったら、姿なんて見せなくていいから子どもを大事に育ててほしい。梨沙子のことだから他とはちょっと違った名前を付けると思う。僕らの常識からはちょっとずれていて、それでいてそのずれ方が頭の悪そうでない。

「今年はすべての目標を高く持つことを目標にしてて(笑)」

こんなレトリックを使うようになりやがって。夢で探した階段は、目が覚めたときにいるその場所。夢の階段を探そうとして、大人の階段から落ちる。たとえ踏み外したとしても、落ちずにその羽で飛んで行っちゃいそうだ。りしゃこはパタパタ、ガースーはバッサバッサと。

大人になった梨沙子を見たいといって、目の前にいる大人に気がつかない。自分で自分のキャラがわからないという梨沙子は、わからないということがわかっただけでも、もうなんにもわからない梨沙子じゃない。大人と言われるようになってみると、本当の大人なんてそんなにいないことに気付くよ。
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2009年02月05日

ケロケロフィフティーン


一年というものは盆と正月があるように、およそ半年をサイクルとして二分することができる。半年でどれくらい恋愛って進むのかといえば、5ヶ月ちょっとをすぎて自己最高記録となったのち、半年過ぎた日が来たならタイムカプセルを作って埋めるほどに進展するのだ。半年も経てば受験生になることもある。

そんな長いような短いような半年間。今日から半年は、いつも見下ろされてばかりの熊井ちゃんと年齢だけは肩を並べる。そもそもなかさきの人生の半分は熊井ちゃんと同じ年のはずなのだ。追いついては離され、離されては追いついて。でもまた離されて。追い抜くことはなく、まるでアキレスとカメを見ているよう。

もし仮になかさきちゃんが180cmまで伸びたとするでしょ?でもそれまでに熊井ちゃんも何cmかは伸びてるはずだよね?その熊井ちゃんが伸びたところまでなかさきちゃんもがんばって伸びたとするよね。ところがその間にも熊井ちゃんは伸びてるはずだから、なかさきちゃんは永遠に熊井ちゃんに追いつくことはできないんだよ。

止まらない。熊はもう止めちゃいけない。せめて年齢ぐらいは仲良くそろえておいてあげたい。二人はハローのオレンジぐさんしゃいん。これでやっとなかさきも四捨五入すると二十歳。熊井ちゃんは身長を四捨五入すると180。もちろん五入じゃなく四捨の方で。啓蟄を待たずして土から出てきたケロがいる。
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2009年02月04日

この未知


大人になっても変わらないところをみるとこいつは本当に八百比丘尼なんじゃないかと思う。しかしそれを確かめるには自分もずっと生き続けて見届けなければならない。そんなの見届けたくないよ。桃子より長生きなんてしたくない。
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2009/2/4「おはスタ」月島きらり登場!新曲をスタジオ初披露!


鉄拳がオチにりさこを持ってくるときの、好きな女の子をいじめてるような甘酸っぱさがいつもうらやましい。きらりと並んだりさこは本当に黒くて黒くて。

両手のバトンが巫者の採り物のようだ。あれも衣装の一部であるのなら、毎年着物を重ねていくオシラサマを遊ばせているようなものだろう。飛ぶための羽というよりは敵を威嚇するために広げる羽に見える。

よく時間を気にして途中で帰るきらり(時計ないけど)が今日は一人取り残される。走り去る後ろ姿にアニメでは聞こえない小春の息使い。
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2009年02月02日

巨熊と親羊


小さいのんは隣に熊をいただくことによってより小さく、大きい熊は傍らにのんを置くことでさらに大きく。相乗効果でライバルいっぱい。熊井ちゃんはいっぱいいっぱい。手をかざせば天井とハイタッチ。この空間に遠近法というものは通用しない。なにしろ基準となるべきものが存在しないのだ。一体のんが小さすぎるのか熊が大きすぎるのかは視点の置きどころによって一定ではない。これは一種のだまし絵の類と言えるだろう。

なっきぃとは逆のサイドポニーはわたしが右ならきみは左。熊井ちゃんの後ろにあるのって非常口じゃないの?あれじゃなにかあって逃げるときに頭ガンッてぶつけちゃう。非常時に熊井ちゃんが非常事態。ピースの意味がようやくわかった。あれは「2メートル」ということだね。あるいは横に並んでいるように見えてその実熊井ちゃんだけ2メートル後方にいる。あぁ熊井ちゃん熊井ちゃん、山脈にも似た立ち姿。人よりもちょっとだけ、でも確実に空気が薄いね熊井ちゃん。同じ場所にいても吸ってる空気は違うんだね。だから空気なんて読めるはずがない。地上にいて高山病にかかる熊だもの。
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学年ひとつ違う


岡井明日菜の好きな℃-uteの曲は?

とかいっこじゅんじょう(竹内)
「今日は何の日?エッグの日!」2009/2/1

タケちゃん!タケちゃん!ぼくのあらいぐまラスカル!「とかいっこじゅんじょう」のひらがな表記が新しい。

どんすとっ!
れもね〜れもね〜らけろ

エッグの小学生組だけでちゃんとフォーメーションを組んでやるべきだ。まずはここのところ急に顔立ちが大人びてきたいろりのセリフにドキッとしたい。いろりんビームは目から出るとはかぎらない。サキチィーせっきーの2TOP。あっすーはもちろんお姉ちゃんと同じポジションだよ。まぁなはケロダンスをコピるんだ。メガネを吹っ飛ばす勢いでね。フクさまはケガとかしないように梅さんのマネをしとこうか。

ぼくらのかがやき(岡井)

ホントにおまえはお姉ちゃんが大好きだな!好きから始まるヒロインだな!そんなあっすーが大好きだよあっすー!お姉ちゃんはなんでもいいとか言ってたけど、修学旅行のバスではなんの曲歌ったの?夜はふだん語らないこととか語りたいよね。それともすぐ寝ちゃったかな?そうなったらモノのようになんちゃら。重っ…いやなんでもない。枕投げはやった?そういうのっていつまでも忘れない思い出になるからね。10年経っても覚えていればたぶん一生忘れないよ。輝かしい思い出になるんだよ。だからまくらのかがやきだね、とか言って!それが言いたかっただけでしょ。…はい。

明日菜は一つ下のタケちゃんを「あかり」と呼んでいる。ならば一歳上のあの人をなんと呼んでいるのだろうか。
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2009年02月01日

こんな窓


2008/1/31【〜俺たちをマークしろ09〜「バーレスクホテル」】しもきた空間リバティ

おいおい一介の雇われ管理人がホテルの支配人たぁずいぶんと出世したもんじゃねぇかいノリマッつぁんよぉ。FCイベのとき、直角のおじぎに太い声で「ありがとうございました!」って言ってもらっておきながら、塩田さんに夢中でお返事できなくてすみませんでした。下北沢にも全然慣れない今日このごろ、支配人ボケすぎ〜!って言いたかったのにカッコよすぎです。どう見ても階段でハトミカに踏まれるルーム長の面影はありませんでした。

ホテルの一室を舞台に繰り広げられる3話のオムニバス。なかでも窓を効果的に使った#2「素晴らしき世界の崖っぷちで」の緊張感に凍りついた。桃子を落とすシーンは演技であるとはわかっていても、張り詰めた空気がまるで本当に人を落としたときのようだった。演技それ自体はウソの行為であるけれど、そこから作られる空気がホンモノだった、というか。「バーレスクホテル殺人事件」でもおかしくなかった。

あの窓を見るのが怖くなってしまう、昔話「こんな晩」のような怖さ。ただ同じ怖さでも、不意打ちの1回目と愛人の目の前で落とす2回目とでは少し違っていたような気がして、もう一度見る機会があればそんなところをよく見てみたい。

結果として桔平はきっとこんな心境だったかと。

無くしそうになったときに
初めて気づく大事なそのコトに

なんでも寝るキューに結び付けてしまう、僕の悪い癖。千秋楽スペシャルを振り返ってみたりしたけど、あのとき舞台にいた人は僕にとって神様みたいなもんですから。自殺を思いとどまらせるための聖書。自殺した枕元に聖書を置いていた人だったら、どんな一節を引用するんでしょうか。一節によると人間って…。

あとやっぱり女は怖いですね。桃子はなんでもお見通しですね。窓から身を乗り出した桃子は絶対に後ろを振り返らないんですね。むしろ待ってさえいたんですね。ていうかタフな桃子がいなかったら救われるもんも救われていないですよね。いや逆に桃子がタフだったからこそ、三度も一線を越えた救われないはずの桔平は大事なそのコトにようやく気付いたんですね。
posted by sleeping mizuki at 23:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 【イベント】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする