2008年10月19日
2008/10/17【劇団ゲキハロ第4回公演 携帯小説家】サンシャイン劇場
最近、非ベリキューが続いていたので久しぶりの℃-uteが懐かしい。一年ぶりの劇場も懐かしかったけど、すっかりきれいになっていてもうあのイスに座れないのはちょっと寂しかった。ヒロシを追ってなよなよと崩れ落ちるまいまいの背中はもはや女性の曲線をそなえてる。
前半はハイテンポなコメディタッチ。ケータイ小説を地で行くような唐突で目まぐるしい展開は、物語を作る過程の物語。
クライマックスとなるシリアスなシーンで℃-uteが置いてきぼりだったのが残念。今回℃-uteは座長ではないらしい。しかし小説のクオリティがどうのこうのや売れる売れないなんてことはあくまで大人の事情であるので、別に小説家になろうとは思っていない夢野美鈴にとっては、あのいざこざは口をはさめないものではなく、はさまなくてもいいものであるのだろう、と解釈してみよう。そうであるなら、現実の酸いを味わったあとでなおケータイでない小説を書こうと志す清香の決断がいっそう光るものとなる。
「江戸から着信」において、コウダイ寺の和尚は現代と江戸で入れ替わるという両義性を有しており、「寝るキュー」における両義性は則松良平に見ることができた。「空は、どうなのかね?」とCAUTIONテープの領空を侵犯するミヤブーの手を外側から叩き落したかと思えば、夏美が現れたときには部下の身に危険を感じながらもテープの内側にとどまらざるをえない。それは良平がテープのどちら側にも存在しうることを示していた。テープを境にあるものは大人と子どもであったか、夢と現実であったか、いずれにしろどちらでもあるような都合のよい立ち位置は、裏を返せばどちらでもないという不安定な立場にもなりうる。「俺自身はどこで寝たらいいのか、俺自身考えていなかった…」と言って階段で寝るのは、どちらにも属しきれないゆえに本当の居場所がない悲哀を感じさせてやまない(それでも最後には「管理人として」ごまかしに加担することで一応の立場を見つけた)。
今回の舞台ではケータイを含めたネット媒体がそれに当たるだろう。7人が出会ったのが清香のブログなら、作家先生をひどい目に会わせてしまったのもネット上の掲示板だった。そこへアクセスするためのツールとしてのケータイ。
ケータイ小説は誰でも簡単に世界中に発信できる。それがダメなんだと吉原健三郎。これはケータイ小説にとどまらずブログのことを言われているようでもあった。誰でも自由に発信できるのは長所でもあり短所にもなる。触るものみな傷つける尖ったナイフ、いやケータイ。
流した涙の分だけ人を感動させることができる。そんな「涙の色」が強烈だった。栞菜となかさきを視界に捉えて比べてみても、なかさきには見ているこちらが殴り飛ばされるような勢いがある。栞菜のは当たっても痛くなさそう。なかさきは頭がブレない(たぶん前髪が崩れるのがイヤなんだろう)。栞菜は髪を振り乱す(「涙の色」のような曲ではそれもまたいい)。まだ全然なかさきを倒せないどころか差は広がる一方だった。
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でも!また観たときわかることもあるだろうし、前半はホント面白かった。主題歌のキラキラ感も素晴らしかったです。
やっぱり清香の口から何か語ってほしいところですね。寝るキューで泣いたのはノリマツと来夏のやり合いだったし、何かそういう、役者も観客も共に感情移入できるシーンがほしかった。
7人(℃-uteも夢野美鈴も)がまとめて扱われすぎかなとも思うし、ゆり役も見ようによっては深みがありそうだし、そのへんもっと物語が広がる余地がありそうだなとは思うんです。
前半のノリで押し切っちゃうのもアリかなぁとは思いました。あれはあれで寝るキューにはなかった℃-uteの演劇の新たな魅力ですよね。