2008年10月22日
2008/10/21【劇団ゲキハロ第4回公演 携帯小説家】サンシャイン劇場
吉原「あんたは本当に楽しいと思って作ってんの?」
岸「私は、読みたいと思ってる人のために作ります」
吉原の問いに真正面から答えていないという点でこれは「逃げ」の発言だと思う。31歳のおっさんのリアルと女子中高生のリアルは違うのであれば、34歳のおばさんの岸もまたその例には漏れず、「本当は面白くないけど仕事だからやっている」という言外の意味をこの答えは含んでいる。しかし一方で「仕事だから」という論理もわかる。現実を目の当たりにして、むしろわからなければいけなくなる。そう思っていないととてもじゃないけどやってられないこともある。
物語の前半でも岸は同じ問いを藤村にぶつけられていた。
「岸さんは本当に楽しいと思って作ってるんですか?」
そのときはお茶を濁して答えなかったが、のちにまた吉原に聞かれることになる。前半と後半では芝居が一変するが、この問いだけは忘れられていなかった。
吉原「無理矢理書かせてもしょうがないじゃないか」
岸「仕事ですから」
ここに作家と編集者の間に横たわる、エーゲ海よりも深い溝がある。そして脚本の太田さんがなにがしかの思いを込めるならここにあるような気がした。当然立ち位置としてはものを作り出す方、吉原健三郎の立場に立脚することになる。
ものを書く、ものを作るということは想像以上に苦しいことだと思う。こんなブログを書くにあたっても少しは思うところがあるというのだから。まず役者に、関係者に、脚本を認めてもらうこと、お客さんに足を運んで見てもらうこと、良し悪しは別としてできれば評価をしてもらうこと、つまりはお金をもらって興行として成立させること。そして、それと同じくらい本を書く人にとっては大切かもしれない、何よりも自分自身が作品に納得すること。出演するアイドルの稽古時間がとれないといってやむなく本を書き直すなんてこともあるだろう。いろんな制約があり、苦しんで答えを出していく。それが古めかしくて重厚な吉原健三郎の文学として物語には表れる。
それと対照的なのがケータイ小説「サムライ☆ベイビー」ということになる。たいして悩みもせずにテキトーに書き継いだような文章が「小説」を名乗って売れてしまう。おっさんには理解できない。こんなものが小説なのかと。でもやっぱり出版社から見れば「売れればいい」のだ。それが文学のような神聖さをまとえるものであればなおさら聞こえがいいだけであって、全く無縁なケータイ小説であっても売れればいい。そうでないと生きていけないのだから。だから作家の断筆宣言なんて「俺、今日から仕事しないよ」と言ってるようにしか聞こえない。「あ、そう。勝手にすれば」てなもんで。個人的には、「俺たちは文化を世に送り出しているんだ」などという使命感の方がよっぽどうさんくさい。別に本だけが文化じゃないし。
こうした仕事観の違いは「作る」側と「作らせる」側の違いだろうか。もちろん編集の仕事だって独創の生きる余地はあるだろうし、作家だって自分で見つけた答えをすら妥協によって捨てなければならないときもあるのだろうが。作家が文章を書くのは誰かに命令されたからではない。その過程にはいろんな制約があるけれども、それを乗り越えて自らの言葉を探す。編集は組織の中での役割であって、命令をしたり時にはされたり、私情を挟む余地はなく自分だけの言葉なんていらない。いわゆる「仕事」でも全く違うベクトルは同じ方向を向けば倍になり、そっぽを向けば相殺されてゼロになる。
それでは、この「作家対編集」の戦いを傍観していた夢野美鈴はどうなんだろう。彼女たちは「仕事」となった2作目からはパッタリと書けなくなってしまう。最初は自らの内発的な理由から、それは人目を気にしなくてもよいためにであったり、母親への気遣いからであったりするのだけど、楽しんで書いていた処女作とは状況が異なって、書かなければカンヅメにされるという半ば義務となるような状況に至って彼女たちは書けなくなる。自分たちの言葉を見つけられなかったのは携帯小説家ならぬ携帯小説蚊だ。苦しみが伴うとそれを乗り越えられずにあえなく解散してしまう。それでもまだ彼女たちは許される。そういう年頃だから。
そんな中でも小説家を志す清香にはこれからも苦しみが待っているだろう。一番最初と一番最後のシーン。一人舞台の中央に立つ清香のケータイに着信が入るという似たようなシチュエーション。ただし最初のシーンでは清香はケータイをそのまま持っているが、最後のシーンではパタンと閉じる。これをケータイ小説を書かなくなることの象徴的なしぐさと見る。これからもケータイを使って(メモ代わりにして)小説を書くが、それはケータイ小説とは呼べない。ケータイは小説のジャンルとしてもあるが、ペン、パソコン(ワープロ)に続いて小説を書く新たな手段としてもある。かつてワープロが普及し始めて、それまでペンで書いていた作家の原稿がフロッピーに収まるデータになった時のような変化を、ケータイは起こそうとしているのだろうか。少なくともケータイ小説という新たなジャンルにおいてはそれはもう自明のこととしてある。手書き、キーボード入力に続く、ケータイのキーボタンによる入力。
仕事論のぶつかり合いという観点で見るならば、さらに℃-uteは、アイドルはどうなんだろう。法的には「個人事業主」になるとかいう一説を聞いたことがあるけど、そんな一説はこの際どうだっていいとして、アイドルもまた事務所という組織の中の一員にすぎない。会長がいて社長がいて、アイドルはそれよりももっともっと下、役職名もない商品なんて言われたりもする。そういう意味ではスパーク出版の編集のように本心に背き仕事として割り切ることができる。実際そうかもしれない。しかしそうとは知りつつもアイドルがしゃべれば僕らはそれを疑いもせず、あるいは真剣に疑うことで理解しようとする。そんな時のアイドルの言葉はまるで作家が選び取ったような必然性のある言葉として受け止められる。外見と内実で、それぞれの立場によって、どこを見るかで、全然違ったお仕事になる。ある人には部活の延長で、ある人には生活がかかっていたり、プロにとってはしくじれないヤマであったり。
コメディな前半が第1部でシリアスな後半が第2部なら、「乙女COCORO」と「涙の色」は圧倒的なパフォーマンスの第3部。劇中劇から劇へ、そして劇ではない現実の℃-uteへとだんだんと彼女たちは次元を超えて迫ってくる。あのダンスはどう見ても広海ちゃんではなくなかさきだ。当然その先は踏み込んではいけないプライベートの第4部。演じている人物で言えば、劇中劇「サムライ☆ベイビー」の登場人物としての7人、ゲキハロ「携帯小説家」の登場人物としての7人、アイドル℃-uteとしての7人、そして人間としての7人。
寝るキューではタイムカプセルや桜チラリを歌うのは来夏であり司でありノリマツ・イシゾーであった(と思える)のだけど、今回はそのまま℃-uteが歌っている。ストーリーとしてはつながっていないように見える。しかしそれはそれであの空間で起きることを全て演劇だと考えれば、℃-uteは何重にもまとっていた演技という衣を一枚ずつ脱いでいって、最後に姿を現してくれているのだ。最後の薄皮一枚だけは絶対に剥がさずに。一番薄いようでいて、それが最も剥がしてはいけないものだと知っているから。
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/108466776
この記事へのトラックバック
http://blog.seesaa.jp/tb/108466776
この記事へのトラックバック

