2007年08月04日
アイドルの中の人
2007/7/28 「MUSIC FAIR21」 踊る!大アイドルソングス特集
アイドルソングス特集にあって「恋レボ」を歌うというのはそれ自体アイドルの歴史の中に位置付けられていることの証でもある。当時のメンバーが一人もいない曲、当時は誰も生まれていない曲、そういう曲を歌うことで歌は歴史性を帯びてゆく。ハロー!プロジェクトスペシャル企画でありながら出演者よりも歌の方が主役だったかもしれない。
「私は今生きている」 (「17才」原曲は1971年)
「おしえてここは何処?私生きてるの?」 (「天国のキッス」1983年)
それぞれの歌詞全体における意味、時代性、歌い手などあらゆるものを捨象してただこのフレーズだけを取り出して聴いてみれば、アイドルはこんなにも死に接近していたのかと思う。こういう回顧的な企画はまさにそういう捨象のためにあるのだとも思う。この日に限っては誰が歌うかではなくて、何を歌うか。
「私生きてるの?」と問うほどにその生は不確かで、「今生きている」と何度も確認しなければまるで死んでしまうかのようだ。そこには「生きている喜び」よりも「死んでいない安堵」の方が強いように思われる。
この世界にいる者なら、つきつめるかはともかく誰もが一度は考える命題「アイドルとは何か」。アイドルが見せる生と死はその答えに最も近づけてくれそうな気がする。アイドルがアイドルでなくなったときに、そこにアイドルをアイドルたらしめていたものが見えるんじゃないかと。
だいぶ昔の00〜01年ごろだったか、よくあるサイト間における回覧形式のQ&A、今に言う「バトン」で「なぜモーニング娘。を応援するのか?」という問いがあり、これに対する答えの一つがこう言っていた。
「なっちが応援してと言ったから」
なぜなっちなのか?は自明のこととして省略されている。それは回答者がアピールしたいなっちへの気持ちの強さ(だってなっちだよ?そこらへんに転がってるアイドルじゃなくてなっちだよ?そのなっちが言うんだから応援するに決まってるじゃん)でもあるし、回答者の感情を離れれば「卵が先かニワトリが先か」的なロジックに陥り因果関係が倒錯するが、そこにアイドルにハマる契機すなわちそこから透ける「アイドルとは何か?」が見えるのかもしれない。
その生と死は「アイドルとして」にとどまらないことも残念ながらあった。僕はただその名前を聞き及んでいるだけだったけど、忘れてはいけないというか知らなくてはいけない21年前のできごとがある。人間として、アイドルとして、アイドルが死ぬとはどういうことか。
四谷四丁目2007
行き場があることが不幸中の幸いだと言われるけれど、舞波とかめぐとか言ってるのが恥ずかしくなってしまうくらいに自分にとってはやっぱり重い。全く想像もできないくらいに重くて重すぎる。なにがなんだかわからなくて想像のしようもないのではなくて、想像することすらタブーであるかのような本能がはたらいて想像できない。それくらい重い。だから重いとしか書けない。だってみんな自分の推しメンが…なんて考えるのもおぞましいでしょ?なんて書くこと自体がはばかられる。
しかしいま同じものを見ている人が当時を知り、かつそれを語ってくれるということはこの不幸にあっての、それを知らない自分にとっては幸いではある。
擬似的な経験はしたことがある。今年の初め、スポーツ新聞に「モー娘。吉沢事故死」の見出しを見た。それは折りたたまれて「弟」の文字が隠されていたもので、よくある常套手段に釣られたに過ぎないのだけど、その錯覚はなんとも言えない衝撃だった。擬似とはいえその瞬間だけは真実として迫ってきた。
こういうことを新聞記事にするのは不謹慎かもしれない、こうして触れるのも不謹慎かもしれない。でも事実を前にしてそれを乗り越えるためにはそこに何がしかを見出さなくてはならない。そこに僕が見たものは吉澤ひとみというアイドルではない人間だった。
この一件以降明らかに吉澤を見る目が変わった。吉ヲタでもモーヲタでもないから現場に行ったり発言をチェックしたりというわけではないけど、一人の人間として見るようになった。ヲタ目線ではないのかもしれない。僕にとってはアイドルではないのかもしれない。でもそれはアイドルとして死んだということではなくて、人間としての吉澤ひとみがその向こうに見えるようになったということだ。
一人の人間の死とアイドルとしての死はどこかで交差するのだろうか。アイドルとして死んでも人間として生きられる。人間として死んでも死して神格化されることもある。お互いがお互いを超越している。そもそも次元が違ってて、どちらが…という比べ方はできないように思う。
もっと乱暴に時代を横断すれば、「力石徹の葬式」(1970年)というのは力石という架空の存在を真実たらしめる行為だった。人間の葬儀と変わりなく遺影を飾り読経することで、キャラクター(虚構)の死を人間(実在)の死へと昇華させた。
アイドルという存在自体が人間の偶像化ならば、この葬式に言えるのは特定の思想に担がれたという経緯はあるものの、アイドルが擬人化されているということだ。人間を基に作られたアイドルが再び人間になろうとする。「人間性への回帰」とでも言うのか。
N.Y.の9.11と市原の9.11はどちらが重いのか。そう比べる時点ですでに間違っている。同じ天秤に乗せることはできない。N.Y.の方が重いに決まってるだろ、ということではない。より卑近なできごとに答えを求めることしか僕にはできない。
四谷四丁目の出来事に戻れば、命日には本名からとった「佳桜忌」という名がつけられているという。本名からとったというところにこれはアイドルではなく一人の人間の死なんだという命名者の意図せざる意図が感じられるとともに、逆に死ぬことで初めて一人の人間に戻れたとも取れてしまい、それこそそこに「人間性への回帰」を思う。殺したのは誰か?ではなく、死んだのは誰だったのか?ということだ。
本名とは別に芸名を名付けること。それは人間とアイドルを区別するための最も初歩的でシンボリックな行為となる。命名にまつわる民俗慣行があるように芸名の名付けにおいても業界内での慣例のようなものは存在するのだろうか。
ただ一つ自分が知っているのは、なぜそうなのかまでははわからないのだが、文字を二分した時に左右対称となるような字形にすると縁起がよいのだということ。例えば「田中麗奈」(「れな」ではない。そもそも芸名でもないけど)。ほぼ完璧に見事なまでの対称性を見せる。今でも言われていることなのかは定かではないが、少なくともこう言われていた当時にこの対称性は何を言わんとしていたのだろう。
本名を名乗る私人としての有り様は常に芸名を名乗る公人としての行動に影響を及ぼし、逆もまた然りということか。芸名をつけたからといって人が変わるわけじゃない、一人の人間として大切なことはアイドルとしても同じように大切だと。どんなに浮世離れしてもそれを忘れないための戒めとして。アイドルとして成功するか否か(何をもって成功とするかはまったくわからない)は結局はその人間性にかかっているのではないかと思う。良いか悪いかではなくて、それがいかに人に受け入れられるか。だから悪い人間性であってもそれが求められていれば受け入れられる。何とも捕らえどころのない「アイドル性」という言葉は、人間性を裏返したものでありえようか。どんなアイドル性といえども全く本人から乖離したところに存在するのではなく、常にその人間性によって裏付けされる、と。もちろんアイドルが人間だということではなく。
だいたい芸名というものの源はどこにあるのか?古典芸能の襲名に由来するのか?自分のものではない名を代々名乗ることから、やがて名を受け継ぐという要素が脱落して一人一人が別の名を名乗るようになった?
一人の人間が複数の名を持つことは決してまれなことではない。体の弱い子どもは擬制的に捨てられ、あらかじめ決められた拾い親に新しい名を付けてもらったりするし、幼名から諱への移行は元服に伴う通過儀礼として機能する。そして死を契機としてはそれまでの名は俗名となり、新たに戒名が与えられる。もちろん生前に名前を変えたりすることもある。
そこに見えるのはありがちだけどやっぱり「死と再生」なんだよ。新たに名前を付けるということは、それまでの自分が死に、新しい自分になるということなんだよ。芸名はアイドルに始まったものではないけど、業の深いこの世界では何度も二つの名の間を行ったり来たりすることを余儀なくされる。つまり死んだり生きたりする。芸名に安住していることも許されないし、芸名を名乗る以上本名に安住することもできない。
周知の通りハロプロでは基本的にすべて本名を名乗っている。いまハロプロ以外のアイドルたちはどれくらい本名を名乗っているのだろうか。つまり芸名を使っていないのだろうか。仮に芸名を使うアイドルが減ってきているのだとしたら、それはアイドルがどのように変わってきたことだと言えるのだろうか。
もちろん同時になぜハロプロは芸名を使わないのかという疑問にもたどり着く。当のつんくはあからさまな芸名であるというのに。僕たちが好んで「光男」の方を使う時に、つんくの中の人が光男なのか、光男の中の人がつんくなのかわからなくなってしまうような包摂関係の転倒が本名と芸名の狭間にあって往来する。
「中の人」と言うのも不思議な言葉で、それを使う時にはその人であってその人でない人を見ようとしている。「舞波の中の人」という時にはアイドル石村舞波の中にいる普通の中学生石村舞波を指す。舞波はアイドルを辞めたのでこれはわかりやすい例だけど、では「なっきぃの中の人」と言った時には「℃-uteのなっきぃ」の中にいる「℃-uteのなっきぃを℃-uteのなっきぃたらしめている(あるいは演じている)より本質的な性質」を指すニュアンスが強いと思われる。そして往々にして「中の人」には「裏」にも通ずるマイナスイメージがつきまとう。熊井ちゃんの中の人はなっきぃに歪んだ愛情をぶつけたりする。
この語源がどこにあるのかはちょっとググればすぐにわかってしまうことで、本当にインターネットの中の人はすごいと思う。それが既に「〜の人」という形を持っていたことから以後定形として流布されることになるが、なぜこれは「人」なんだろうか。言葉は刻一刻と移り変わり、「中の人」なんかは最もそういう類の言葉であるからこの先も定形のまま伝えられるか、あるいはこの用法自体が消滅するかはわからないが、少なくとも今まで「中の人」として命脈を保ち続けているのはどういうわけなのか。
日々増殖する用例をいくら集めたところで、そこから帰納的に本質を探ろうとするのはかなり難しいと思う。集め始めた時のニュアンスと集め終わった時のニュアンスが疎通しないほどに日々変化を遂げているだろうから。そこでそういう事情に乗じて、僕が見ている世界に限って(これは恥も外聞もない逃げの一手であるけれど。だって男だもん)もっともらしいことを言ってしまえば、「〜の中の人」が「人」であるのは「〜」の奥底にある人間性を指向しているということになるだろうか。アイドルにだってネットにだって人間性はあるという優柔な憶測のもとに、それは人間性に飢えているということの表れなのかもしれない。そして新しい用法として「〜」の部分に無生物が置かれた時、そこに人間性への指向性がよりはっきりと見てとれる(ex.天皇陛下の前立腺の中の人)。
と同時に視点を変えてみれば、「中の人」というのは言説レベルで語られる時のいわばキャラクターとして用意されていると見ることもできる。「ゆりなっきぃ」なんていうものはまさに友理奈の中の人となっきぃの中の人が言説の中でふざけあう戯れにすぎないのだ。
僕は人間が嫌いなのにどうしてアイドルは好きなんだろう。それはアイドルは人間じゃないと考えた時に自分でも驚くくらいに全く矛盾なく説明できる。人間ではないものに人間性を求めているのだと。あれ?矛盾してる?
加えて21年前の件には一枚の写真がつきまとう。死を写した一枚の写真が拍車をかけて様々な言説が飛び交うことになる。そこに見えるのは「人間の死」か「アイドルの死」か。のちにここから言説が生み出されることを考えれば、アイドルとしては死んでいなかったのかもしれない。
20年後、つまり1年前、時は過ぎて写真はカラーとなり、続けざまに何枚も撮られたそこに写っていたのは「アイドルの死」そのものだった。そこからはそれほどの言説は生み出されずにみな口をつぐんでしまったように思う。写真によって喚起されるのではなく、あの写真に黙らされてしまった。
「夜目遠目傘の内」。女性がきれいに見えるシチュエーションというその言葉はあくまでも人間の女性を指すのであって、アイドルを見るのなら明るくて近いところで傘の外にいるのを見たい。
ミュージックフェアを見た翌日、ハロコンで聴いたのは「そうだ!WE're ALIVE」だった。こんなところにもあったじゃないか。
「We're ALIVE SO 生きている THE 人間 そう そう 人間」
「アイドル リーマン ギャル子 ギャル男君
父ちゃんも母ちゃんもみんなみんな」
今まで吐いたダメゴトをすべてこの言葉の中に入れてしまうことができる。まさに愛情で包んでもらうように。ここではその包摂関係は逆転しない。アイドルに包んでもらう人、すなわちアイドルの中の人間性に包まれる自分。リアルタイムで聴いてた当時はそんなこと思いもしなかったのに。歌は世につれ。
そうやってこの曲も確かにこうして歌い継がれている。世は歌につれ。
アイドルは「踊らされる」と言われる。それでもいいと思う。ただ「踊る!」と言っておけば。死んでいてもいいと思う。ただ「生きている」といっておくことで。そこから踊らされている僕らは踊っているという自覚を持ちえ、死んでいる僕は生きているという実感を得る。
「でも嘘なんだよ」「あっ本当(中学生フォロー)」
LET'S ALIVE!
アイドルとは生きることと見つけたり。
アイドルの中の人はいつも大変。
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以前にリンクをいただきましてありがとうございます。そちらのコメント欄でお礼をしようと思ったのですが、うまく書き込めなかったようなので遅くなりましたがこの場を借りてお礼かつ引用させていただきました。
「語弊のある表現」とのこと、もし差し支えがありましたらすぐにリンクは削除します。でも僕にとっては一言一言が重く、不快どころか目を見開かされることばかりでしたよ。
>アイドルは「踊らされる」と言われる。それでもいいと思う。ただ「踊る!」と言っておけば。死んでいてもいいと思う。ただ「生きている」といっておくことで。そこから踊らされている僕らは踊っているという自覚を持ちえ、死んでいる僕は生きているという実感を得る。
ゾンビに喰われてゾンビになろうってか!?最高!!ハラワタも脳もぶちまけてやるぜw
>おニャン子によるアイドル解体と、佐藤佳代の死と、スプラッター映画の流行は多分つながってるんだな。
やはりあの写真ゆえのことでしょうか、そういう方面でももてはやされているようですね。
>ゾンビに喰われてゾンビになろうってか!?
そうなんですよ、アイドルに「食べられる」という感覚。ちょうど近々書こうと思ってたんですよ。近々といってもいつになるかわかりませんけどね。
>ハラワタも脳もぶちまけてやるぜw
誰の?