2007年05月17日

見送る愛理


敵陣ゴール前、混戦の中から吉澤の放ったシュートは相手選手にぶつかって勢いをなくしたまま無人のゴールへと転がっていく。

そこに待つのは愛理。昇格組の記念すべき初得点は大本命の舞美ではなく愛理なのか?フットサルまでおいしいとこ持ってかれたらどうすんだ?なっきぃ。

でも愛理は、普通なら触るだけのおいしいゴールをじっと見送っている。ファウルライン際のバント打球を見極める三塁手、あるいはパットの行方を見守る亨のように。親子だ。

結局ボールはそのままめでたくゴールイン。「どうせこのまま入るんなら私が触らなくてもいいじゃん」とでも思ったのだろうか。外れそうと見るやすかさず足を出しにいったのだろうか。なるべく少ない打数(キック)でゴールを狙っているのか?

モタモタしてると戻ってきた敵にクリアされてしまう可能性もあった。同時に愛理の実力を考えるとヘタにボールに触ることで逆に枠を外すということも考えられた(そこまでヘタじゃない?)。その二つを瞬時に天秤にかけた上での「見送る」という判断だったのだろうか。

--自分の短所は?
物事を考えるのが遅すぎるところ。
(「B.L.T.U-17 vol.2」 ℃-ute 100question)


これだ!フットサルという競技においては致命的だと思う。ただあの見送りに鈴木愛理という人間を見た気がした。

育ちの良さ、お嬢様ゆえのハングリー精神のなさ。と言われるところ。本当は秘めたるそれがあるのかもしれない。でも見えない。枕に顔をふせて大声で泣く姿はそう言われても想像しにくい。むしろ困ってる。喜怒困楽といってもいいくらいに愛理は困っている。それはそう見えるだけか。

いま愛理に感じる不満は「あぁ!」で予感させた伸びしろに及ぶだけの伸びがなかったように思われるから。それはこちらの勝手な思い込みであるけどそれだけ期待は大きかった。「サヨナラのLOVE SONG」に感じた違和感もそこに起因するように思う。今この曲を歌う愛理よりも当時「FIRST KISS」を歌う愛理のほうが上手いと思えてしまう。

でも歌は歌唱力だけじゃない。テクニックに走ることなく愛理にしか歌えない歌を歌ってほしい。育ちのいいお嬢様ならそれでいいじゃん。お嬢様にしか歌えない歌を。焦らずに、その見送る姿勢をフットサル以外の場面では大切にしてほしい。

これからいろいろな経験を積めばまた別の愛理らしさが身に付いてくるはず。大阪でるてるてずうぼを熱唱して翌日のお足元を悪くする愛理。みたいなしたたかさとか。今は今のままで。やがて成長した時にもっと深みのある歌が歌えるようになっているはず。そのためには℃-uteを続けてね。

--得意なスポーツは?
スポーツはほとんど苦手です。
(前掲)


得意にならなくてもいい。苦手なままでいいからフットサルをやることもきっとどこかで歌うこととつながっている。肺活量とかじゃなくて、歌詞の、メロディの裏側ににじみ出てくるものとして。

それにどの試合か忘れたけど、終了間際にサイドからポストに当たる惜しいシュートもあったじゃん。昇格組初得点のチャンスはまだ残されているし。

あの時転がるボールを蹴り込んでいたら、歌から始まるヒロインはフットサルでもヒロインになっていたと思うけど、愛理という人間を見ることはできなかったかもしれない。深いな!フットサル。

転がるボールを蹴り込む「勇み」とその向こうにある「時めき」。そこにいつかたどりついたら、もう見送らないミラクル愛理。とかいって!
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2007年05月13日

有原栞菜は何者なのか


サーキットをやって応援企画をやってキューティーショーをやって初デートをこなした℃-uteの栞菜じゃいけないの?栞菜はそれでもまだ新人なのか。

栞菜が入ってまだ間もないころ「栞菜のダンスはエッグのダンスだ」という話を聞いた。エッグのダンスというものがよくわからなかったし、そもそも当然その比較対象としてあるべきキッズのダンスというものも考えたことがなかった。

見た限りでは今の℃-uteではめぐのダンスに一番近い力強さ。さらに言えば初期嗣永の全力を放出する常に次の瞬間には倒れそうなダンスにより近い。ただ栞菜のことなのでそれさえもムラがあるのかもしれないけど。

見慣れた℃-uteの中の栞菜ではなくエッグの中に身を置いた時、彼女のダンスはどう見えるのだろうか。セットリストを見る限りでは光井との関係が気になる。いいライバルになりそうじゃん。

そして栞菜は何者なのか?

「Go Girl」は古くFCイベにおいてキッズ15人だけで歌った曲。そのあとすぐにBerryz工房のデビュー曲披露となる。必然的にベリと非ベリに分かたれたキッズ。そこにあって「Go Girl」はハロプロキッズ統合の象徴であった(と勝手に思っていた)。いつだったかのハロコンで歌った時はベリと℃-uteは向かい合って交互にダンスを見せていたけど、そうではなくやはり同じ方向を向いて歌ってほしい。それがキッズの統合であるから。

それを栞菜が歌うこと。

ベリ+℃-ute ≠ キッズ

という不等式を解消する時が来たのかもしれない。明らかに栞菜の加入を機にキッズという名称は消えている。キッズを解消させた本人によってようやく16人が一つに括られる時が来る。

栞菜の背後に広がるそれは何か。
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2007年05月12日

涙から始まるヒロイン


5/3名古屋での夜公演、栞菜は出てきた時から笑っていなかった。イントロのダンスがあり曲が始まってからもやっぱり笑っていなかった。なっきぃは笑顔を浮かべていたのに。

久しかった「笑えない」時期から「笑わない」戦略へと移行したように思っていたんだけど、今日の真顔は「笑えない」ように見えてしまう。体調悪かった?昼で疲れた?感情の起伏が激しいというのかもしれない。それに加えてその激しい感情を隠せない。でもそれでいい。隠せないのならむしろ起伏を大切に。恋に落ちて天にも昇るようなその振り幅を大切に。崩れたそのリズムを崩すことなく。有原の「り」はリズムの「り」。

全面広告の真顔、あれは「笑わない」顔だと思う。歯を見せれば笑っているように見える。あえて(?)それをしないのは有原と萩原、梅田、そして菅谷。他の三人はそれでも様になる。穏やかな笑顔の萩原と菅谷。見開いた目が人形のような梅田。栞菜は歯も見せない、笑ってもいない。でもそれが他の誰でもない栞菜の顔だから。

千秋楽はただ一人泣いてたって?そんなことも知らずにのん気に「イェイェイ!」とかやってたよ。涙が浮かぶよな夜公演、終わったらすぐに戻って翌日はレッスン。なかなか起きられなかった?キツい?嫌になった?

「私℃-uteで浮いてるから」

とんでもない逆風の中でスタートしたのは知ってる。それこそ涙が出たかもしれない。メンバーは「栞菜でよかった」というけれど、栞菜にとっては本当に℃-uteでよかった。

ただかまってほしいだけだよね。「そんなことないから!」って言ってほしいだけだよね。そんなサインを送る栞菜はいじらしくていとおしくて、会場ではみんな栞菜の名を呼んでるから。毎日エールを送っているから。

もしも本当に浮いてるのならそれはぶっちゃけ武器になるし?℃-uteは栞菜に優しいよ。℃-uteヲタも栞菜に優しいよ。有原の「あ」は愛情の「あ」でしょ?だからもっと生意気を見せて。

「歌えば尚また楽しい」

ね、みんな歌でつながってるんだかんな!

楽屋でのソロコンサートじゃなくていつかステージでソロ曲を。栞菜一人に向けた歓声を聞かせてあげたい。そして泣かせたい。その涙がまた人を生かすんだと教えてあげたい。

栞菜の「な」は涙の「な」。でもそれは悲しいだけの涙じゃなくて、ハッピーの手前に必ずある涙。

黒目から 光る涙が 落つかんな
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2007年04月04日

梨の節供


花曇りで花冷えの4月4日。

晴れたら晴れたで美しいと言われる一方で、曇っても寒くてもそれは桜のせいにされる。春がドキドキするのも、突然雷が鳴って雨に振られるのもきっと梨沙子のせい。

「愛する人の名前を日記に」で前を向きながら後ろへと下がっていく梨沙子は、本当に遠くへ行ってしまいそうでひたすらせつなかった。「いつか大人になった朝」がもう来てしまったかのようで。いつも背中を追っているばかりだけど、その背中すら見せずに遠くへ行くのはやめてよね、梨沙子。

嗣永「13歳になったら何やりたい?」
菅谷「なんだろ…?何かしらやりたいね、でも」

嗣永「ちなみにさ、ケーキは何味がいい?」
菅谷「あー…あたしケーキだったら何でもいい」

嗣永「じゃあ梨沙子は質問ありますか?」
菅谷「なぁい!」

2007年4月3日「起立!礼!着席!」


話を広げようという気なんて全くない梨沙子。誕生日に一人ケーキを食べる(絵を描く)梨沙子。窓の外には散る桜。それが梨沙子らしい梨沙子。

ハロショで買った期間限定のバースデー写真はなんでこれで100円アップするのか一向にわからないメタリック仕様で、レシートには「シャシン スガヤ メタ」と表記される。梨沙子が梨沙子を演じることなく、いつまでも梨沙子のままでいてください。

曇り空はにわかに薄暗く、街灯に照らされて夜桜を見るよう。滝のような雨と風が桜を散らすというより落としていた。緑色も混じってきていてたぶんこれで今年の桜は見納め。今年の4月4日は春雷轟く雨の中をとぼとぼと歩いた。あの雷鳴は何の合図だったんだろう?

横を向いて何かを待っているかのような梨沙子は、きっと桜が咲くのを待っていたんだと思う。秋の真っ只中に。SSAのグッズ売り場で見たコメント色紙はまるで桜のような淡い色使いだった。桜を待って桜が舞って。

桜とは木の横に立つ女、その上に舞う花びら。


sakurasaku.bmp
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2006年10月15日

熊井友理奈の言語変換機能


嗣永憲法“第三条”から錠剤を思い浮かべて「(三錠で)薬かと思った」という友理奈には「身長さ〜ん!」が「身長3」に聞こえる。彼女の変換機能は左ななめ180度ぐらい他とズレている。

そしてなにより友理奈らしいのは、間違ったその変換を自重せずに口にするところ。
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2006年05月29日

菅谷梨沙子の憂鬱 〜散るサクラ憂うリサコ〜


菅谷梨沙子は憂鬱になる。

時として不安定なその感情を、隠そうともせず黙りこむ。あるいは隠す術を知らないだけなのかもしれない。その憂鬱な瞳はこまやかで繊細な神経を感じさせる。

12年前、菅谷は予定日より遅れて生まれたのだという。その年横浜の桜は4月1日に開花している。まさにこれから満開になろうとするその只中、まるで桜が咲くまで待っていたかのようなタイミングで菅谷梨沙子は生まれてきた。

桜はその下に屍体が埋まっているだとか、人を狂わせるとかいう。美しすぎるゆえにその裏に何かがあると考えたくなるのだろうか。菅谷もまたそんな二面性を感じさせる。未熟さと早熟さを同時に持ち、時に抱えきれなくなる。

坂口安吾は「桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色に」なると言った。ならば菅谷はその怖ろしい景色を見せぬために、咲こうとする桜の元に生まれてきた、本当は桜の精なのかもしれない。

桜の美しさが背後に屍体や狂気を抱えるならば、菅谷は何を抱えているのだろうか。菅谷の背後に隠れているのは、そして時折隠しきれずに姿をのぞかせるのは、屍体でも狂気でもなく未熟さと早熟さの狭間で葛藤するスガヤリサコという人間なんだと思う。

桜の花言葉は「精神美」。自分で自分を認識しきれない、か細く不安定な神経こそが菅谷を美しくしている。けだるい美しさ。憂いをあらわにした「鬱くしさ」なんて言ってみたりして。

しどろもどろになっている時、この子には何かが降りてきてるんじゃないかと本気で思う。きっと桜の精が、彼女の背後に隠れている大人でも子供でもない姿が垣間見える。

予定日通りにもう少し早く生まれていれば、今はもう中学生になっているはず。あと1年小学生でいられるのは、そしてそれを見ていられるのはやっぱり奇跡だと思う。

いつか君が大人になった夜に、僕は泣いたりするのかな。
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嗣永桃子の作為 〜桃子らしくわざとらしく〜


嗣永桃子は作為的である。

そう思っている時点ですでにその作為に翻弄されているのかもしれない。作為とは故意。狙っているということ。彼女はそれを周知させる。「こいつ狙ってるな」と思わせる。そう思わせてなお、それでもよいと思わせてしまう。

一言でいうとウザい。もちろんいい意味で。ウザかわいいとでも言おうか。くどくしつこいところをかわいいと思わせてしまう才能。いや、才能で片付けてしまうのはやめよう。才能とは便利な言葉で、わからないものをこの一言に押しこめてしまうことができる。用途不明の遺物がすべからく祭祀用具とされてしまうのと同じだ。むしろ常人にはわからないからこそ才能という抽象的な言葉でしか表せないのか。

では嗣永桃子の才能とはなんなのか。料理はしても計量なんてしない。宿題なんかググっておしまい。大雑把でめんどくさがり、勉強嫌い。嗣永の才能とは、そんな自分を100%肯定できることかもしれない。それをまた作為と言う。そう、桃子がわざとらしくすなわち桃子らしくあることで、僕は僕らしくいる勇気をもらい、君は君らしくいることができる。そんな個々の存在を肯定する光であって欲しい。さらに嗣永はそれに「あざとさ」が加わる。

Berryz工房の結成式。「この8人で…」ここでいったん言いよどむように呼吸を止める。まるで周囲の反応をうかがうかのように。周りも不自然な中断に「まさか自分のグループ名を忘れたのでは…」という疑念が一瞬よぎる。そこをすかざず「…Berryz工房です!よろしくお願いします!」と期待を裏切る。この煽りにも似たあざとさを嗣永はこのころから身に付けていた。

(余談だが1年8ヶ月後に嗣永は再び「Berryz工房は8人なので…」と宣言する。それはまさに8人時代の終わりの始まりを意味していた。)

「自己肯定」と「あざとさ」。それらを「大人」や「緑茶」というキーワードを通して繰り返すことによって、見事に自らを特徴づけている。またこちらも繰り返されることによって安心して受けとめることができる。こうして良い意味でのマンネリズムが生まれる。ちなみに両者のうち「自己肯定」に特化すると「道重」になる。また、「ウザさ」を繰り返すという点では敬愛する「石川」に似る。

「(いつか大人になった夜に)読んだりしたりして…」

動詞「する」を繰り返すこのくどい歌詞自体は、つんくの言語感覚・言葉遊びで片付けられてしまうかもしれないが、嗣永ほどこのパートが似合う奴はいない。実際、大人だと思う。何かと手向かう徳永をあっさりとかわす時なんか特に。

時折ラジオで嗣永が発言した直後に、ほんの一瞬沈黙がスタジオを覆う。他のメンバーは一瞬対応に苦慮しているのだ。その沈黙の瞬間こそがまさに嗣永桃子の世界への入口だ。入るのをためらっていても、その瞬間はくどく何度もやってくる。

桃子らしくわざとらしく。君は君らしく、僕は僕らしく。
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清水佐紀の純情


清水佐紀は真面目である。

ゆえにメンバーからも「しっかり者」と見られる。本人もまたその期待を外さぬかのように優等生的な発言に終始する。キャプテンもしくは最年長という立場がそうさせるのだろうか。またはもともと性格なのか。夏焼と一緒に嗣永をからかうけど、嗣永にからかわれても相手にしない大人な一面。だが僕たちはそれが本当の清水佐紀ではないことを知っている。

学校があんまり好きではなかったり、ホテルのベッドではしゃいでみたり。あるいは家のドアに八つ当たりしてみたり。別に隠してるわけでもないけどすすんで言うこともなく。言葉の端々から、いつのまにか貼られてしまったレッテルを少しずつはがしていくと本当の清水佐紀が見えてくる。

好きなマンガは「浦安鉄筋家族」
好きなお笑いは「オリエンタルラジオ」

浦鉄とか、真面目な女の子にはおよそ似つかわしくない。おそらく兄の趣味と思われるが、逆に言うと家にあってたまたま見たマンガを挙げただけで、普段マンガは読んでないあらわれかもしれない。

なお兄とは仲が良いらしく、クリスマスツリーの飾り付けをするのに「お兄ちゃんにだっこしてもらったり」(!)先日のレコメンでも兄を題材に短歌を詠んでいる。

市原で泣きながら出てきたあの根性と責任感は絶対に忘れない。あの瞬間、Berryz工房は永遠に8人になった。真面目ゆえの強さを持った女の子。それを純情っていうのかもしれない。

もっとわがままになってもいい。その強さがあれば。
世の中に真面目なだけの人なんていないから。
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