2010年04月03日

笑顔と涙とそのあいだ


天気雨を指す「狐の嫁入り」という表現には、天象・空間・人生の諸相における中間状態が換喩として組み込まれているのだという。

中間状態とはすなわち、気象としての晴と雨の並存。空間としては人の住む里と獣の住む山を往来する狐。そして実家から婚家へと嫁ぐことによる独身(個人)から世帯(社会)への移行儀礼である婚礼。このような見知った移行状態に置き換えることによって、晴れながらにして雨が降るという異常事態を人々は了解するのだと(小馬徹「ユーミンとマクベス 日照り雨=狐の嫁入りの文化人類学」世織書房、1996)。

「笑顔に涙」もまた、卒業からデビューへのあわいにあってそのような中間状態を表象していようか。卒業してもデビューではない。明確な線状の境界はなく、帯状のフロンティアとして過ぎるこの落ち着かない一週間は行くも帰るもスマの関。結果ならもうわかっている。遅かれ早かれの問題だから。たとえドラマのように作られたシナリオであってもそれは言葉じゃ交わさない約束なんだよ。期待だけはしすぎるほどにしておいていい。

さらに蛇足を加えると、前掲書の補注において「縞は二つの相入れないカテゴリーの同時並列、ないしは混乱の象徴であると見て誤まらない」とあるのに従えば、先の新人公演でのひょうたん島衣装にみえるボーダー柄もそのような論理に基づいた意味を持ちうることになる。つまり、スマイレージにとっては卒業とデビューという二律をめぐる一連のパフォーマンスを象徴的に表しているのであり、エッグにとってもスマイレージの卒業を転機として大きな変化を迎えようとしている表れとみることができよう。

また、真野ちゃんが虹を見た記事(GREE4/2)に関しても、虹は異なるカテゴリーの近接を象徴するのであるから、すなわちそれはスマイレージとのジョイントコンサートに他ならず、両者が近接することについての瑞兆とみなすべきだと考えられるのだ。


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2010年01月28日

ガーディアンズ4の曲頭パート割り推移について


「おまかせ♪ガーディアン」

菅谷→光井→中島→熊井
菅谷→光井→中島→熊井


「School Days」

光井→菅谷→中島→熊井
光井→菅谷→中島→熊井


「PARTY TIME」

光井→菅谷→熊井→中島
光井→菅谷→熊井→中島


「Going On!」

光井→菅谷→熊井→中島
光井→菅谷→熊井→中島


二番手と三番手の間に見えない壁があるのだとすれば、スマイレージは誰もが一度は飛び越えているのだが、ガー4に関してはその壁は高く強固であるようだ。くまさきの三番手争いがなんだかとっても無駄なことのように思えてならない。

しかし大切なのは二人が並んでいるということ。熊声にケロが続けばふたりはNS。わたしの横にはいつもきみ。新曲の二人パートでも離ればなれのくまさきは、後列に回るかさもなくばこんなときでもないと一緒に並ぶことはないのだから。
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2008年05月14日

触れない『お約束』?


※今回のイベントは『きらりん☆レボリューション』としてのイベントの為、「握手会」はございません。ご了承下さい。

ときに公式サイトのこの文言、「きらレボ」としてのイベントであることは、一見すると「握手会」がないことの理由にはなっていない。いったいきらレボのイベントであることと握手会がないということの間にはどんな関わりがあるというのか。この一文に合理的な整合性を求めるとするならば、「きらレボはアニメである」という次元の壁が立ちはだかる。

きらレボはアニメ。きらりちゃんも、のえるちゃんも、こべにちゃんもアニメの中の人たちなのです。だから現実に握手なんてすることはできません…。

そのわりに司会の人は「二人はハロプロエッグ出身ですが…」なんて、のえるとこべにが北原沙弥香と吉川友であることを隠しもしないのだけど、そういう意味ではSHIPSの二人は、自分はこの二人の名前を知らず、またイベ中に知らされることもなく、ゆえに宙人くんと星司くん以外の何者でもなく、それこそ生身の虚構、ああ、近付けないな…握手なんてできないな…とMilky Wayに思うより強く感じるのでした。

先の一文を敷衍すれば、アニメキャラとしてのきらりとは握手ができないことになる。小春と握手はできても、きらりと握手することは不可能なのか。できるとすればそれは自分がアニメの中に入って初めて可能になる。

踊るこべにが汗をかく。ハテ?ハテハテ〜?こべにちゃんは汗なんてかくの?2次元と3次元、その狭間にある2.5次元的なステージ。0.5は3次元っぽい2次元ではなく、2次元っぽい3次元。

「地下ドル」とその対義としてある“地上の”アイドル。地下ドルはまた近ドルでもあって、そこから仰ぎ見る地上は遠い。地下という語が指し示す垂直的な縦軸と、「ロコドル」の広がりに見る水平的な横軸が決して一様には捉えられないアイドルという言葉を概念を様々に織り成していく。そして今ここ、縦にも横にも収まらない2.5次元にアイドルの新たな地平を見た?伸ばした手は届かない、二人を分かつMilky Way。

思えば天の川は牽牛と織女を隔てる障害。あったよー天の川!天の川あったよー!一衣帯水、Milky Wayは何を隔てる?ステージのこちらと向こう、アイドルとファン、現実と虚構…。そう思うなら遥かに遠い。遠くて遠い。何千億光年のまだ遥かなんとやら。Milky Wayに橋なんて架けられもせず。

とかいって別にどうしても握手がしたかったというわけではなく、握手をしなくてもすばらしいイベントはいっぱいあることを知っている。今回のイベ然り。キューティーショー終わりに握手をしてたなんて今思い出してみても信じられない。

それでも一年に一度だけ、牽牛と織女は天の川を越えて出会う。せめて七夕イベでもあれば、きらりと握手がしてみたい。全く違う世界に住む二人がその場かぎりにおいて触れ合うMilky Wayで。


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2007年09月23日

通学(↑)と光学(→)のベクトル交換


まだ始まったばかりではあるけれど、名古屋までに限って言えば「通学ベクトル」は梅田・岡井・有原の三人で歌い回している。よくよく考えてみればこの三人も「勇ましい輝きの方へ」「美しい輝きの方へ」と向かうベクトルを有していた。

ただし通学ベクトルが天を指し示すのに対して、光学ベクトルは前方の多方向を指す。いわば垂直(といってもその方向は一様ではなく、雨が落ちて下降する垂直ベクトルと天を指して上昇する垂直ベクトルが想定される)ベクトルである前者に対して水平ベクトルである後者。「垂直(↑)/水平(→)」が指向する果てには他界観を重ね合わせることもできる。天上・山上他界を想定する垂直ベクトルと海上他界を想定する水平ベクトル。それは祖霊としての神の示現にもつながり、「神様は意地悪ね」の神様ははるか天上にいるし、好きから始まるヒーローとヒロインは指差す向こうで毎日笑ったり遊んだりしている。

また、ステージ上のベクトルを模倣する時、垂直ベクトルはその向かう先は共に同じく天を指し、たちまちに合成されて増幅してゆくが、水平ベクトルについては互いを指し合っているのか、互いの後ろにあるものを指し合っているのか(※)、あるいは一方は相手を指しているのに対して他方は相手の後ろにあるものを指しているのか、果ては両者は全く同一の物を指していて、それはステージと客席の間に一衣帯水としてある何物かなのかはわからない。

「通学ベクトル」にあるのは今いるこの場と雨が降りてくる天上との双方向的な世界であるが、「僕らの輝き」は曲を通じて3という聖数が基調になっていることを考えれば、「僕ら=三人」と「僕ら=客席」、そしてもう一つ「勇ましい輝きの方」「美しい輝きの方」という三様の世界が広がっている。

そしてこの2曲が共にベクトルで表されうるというところに、愛理が「僕らの輝き」冒頭の千聖パートを歌う必然性が見出せる。三人は愛理の「通学ベクトル」を歌い、愛理は三人の「光学ベクトル」の主要パートを任される。いわば「通学」と「光学」のベクトル交換。

愛理に続く「涙が浮かぶよな夜中も」は舞美。栞菜がいるけど舞美。この必然性はなんだろう。舞美は涙を隠すためにあんなに汗をかくんじゃないだろうか。舞美の汗には時に涙が混じっていることを知らなかった。ただ栞菜だけはその汗に涙の匂いがするのを感じていた。

6人での「僕らの輝き」はそこにいない千聖を呼ぼうとする。

「ここにいるのは6人。でもまるで7人いるみたいにするの」

「7人目の娘を呼ぶためには、あたしら6人が揃う必要が絶対にあったの。だからみんな、本気で歌ってね」

千聖の不在に思ったのは代わりに明日菜が歌えないのかということ。それは現時点では全く無理な話ではあるけど、いつかそんな日が来ないかとふと思ったり。現実的には代役でなくても、同じステージに立つだけでいい。バックダンサーでいい。歌わなくてもいい。ただその場にいるというだけでこの歌詞を体現できるのはこの二人しかいないから。

「家族とならば黙っていても何となくわかるだろし」

この世のすべてはベクトルで表されるという。そう思えば時計の二本の針が、さまよう二つのベクトルに見えてくる。


(※この二態を交差ベクトル、後の世にクロスロードと言う。なお、あの街に続いてる気がする一方向的なベクトルをカントリーロードとも言う)
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2007年09月14日

℃-uteという時間


ステージ上に散乱する時計のモニュメント。ぐんにゃりとひしゃげたその時計を見るとどうしても有名な絵画に思い当たる。その絵画の意味するところが何であるかはまったく不勉強の極みであって、そう言えばドラえもんがタイムマシンで移動するタイムトンネルにもあんな時計が描かれていたよねぐらいしか思い出せないんだけど、とりあえず言えるのは「放課後のエッセンス」は「時間」がテーマになっているらしいこと。

リストバンドの時計、「タイムカプセル」をモチーフにした寸劇、そしてステージの時計、それらに見る放課後という時間。止めるのか、巻き戻すのか、早送りするのか、繰り返すのか、いずれかはわからないけど、だいたい時間は忘れるためにあるのか刻み込むためにあるのかそこからしてわからない。「時が経つのを忘れるほど」楽しかった時間が「胸に刻まれる」とか。寝るキューにあったあの繰り返しの時間は何を意味するのか。ベリーズが空間なのかはともかく、℃-uteは時間を突き詰めてきた。

「時間」という言葉をよく口にしていたのはむしろまあさだった。いつぞやのくまぁずだったか、それはまだくまぁずという名もないころだったか、DVDマガジンでダリの画集を見ている図があったような気がする。

舞美のセリフから始まる新曲が始まった瞬間、下手寄りの時計は「C」、上手寄りの時計は「。」に光る。位置関係が逆な気もするけど、それはステージ上の時計がそれぞれ違う時刻を差すのと一緒ですべては形を成さない混沌の中にある。いろんな時の間隙に何を見るのか。そこには複数の時間がパラレルに流れているのかもしれない。いくつかの岐路を通ってきた℃-uteには「仮定」というもう一つの時間がある。もっともわかりやすいのは「もしめぐがいたら」と「もし栞菜が入ってこなかったら」。今日はそのもう一つの時間を擬似的に体験できる日でもある。

友理奈の欠席に居合わせた熊ヲタは決してがっかりすることはない。不在によって友理奈が無言の内に語ることがきっとあるから。そこにいるはずの友理奈がいないことによって何がどう変わるのか、いつも友理奈がいる場所にいるヲタなら何かしら感じるところがあるはずだから。それは推して知るべし。

ツアーの初日からメンバーが欠けるということ。それが許されるということ。そこまでして参加する学校行事といえば運動会か修学旅行ぐらいしか思いつかないけど、単独コンではなくイベとはいえ、あの時と今は違うとはいえ、かつて夏焼が学校の草むしりで遅れそうになった事実を思えば行事の内容は推測しても無駄だ。

出演者は℃-uteしかいないんだからできることなら欠けないでほしい。しかしなおおそらくはそれが許されるメンバーと許されないメンバーがいるらしいことは誰にでもなんとなくわかる。それなのに許されない方だと誰もが疑いもしなかった一人はもうこの場にはいない。それを思えばこうして一日ぐらい休むのは…と妥協したところで座長のお出まし!

中島「エッセンスにはバニラエッセンスなどの香料と、ものごとの本質という意味があるそうです。学問の秋!」

℃-uteの本質とは何か。きっと答えは出ないと思うけど放課後をめぐって追いかけてみよう。それを知るには℃-uteにあって本質ではないものを取り除かなければならないんだけど、じゃあ本質ではないものとは何か。もう早速わかんない。それはわかったらつまらないかもしれないし、わからないことが本質かもしれないけど、本質とは「変わらないもの」だと信じていつどこの公演に行ってもそこに℃-uteとしてあるものだとすれば、いつどこの公演にいっても℃-uteの本質に触れることができるはずだ。一時的に栞菜がいなくても千聖がいなくても永遠に誰がいなくなっても変わらずそこにあるものが℃-uteの本質と言えるだろう。

「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」

ならば旅人もまた行き交う時間となりうる。℃-uteを探す時間の旅へ。

栞菜はいらない子、と言われるためにも必要な子。というとかわいそうなのでまぁぶっちゃけ、いやぶっちゃけなくても栞菜は℃-uteに絶対必要。やっぱ栞菜は必要るんじゃないか。無駄なモノってなあに?たとえ歴史がどうなろうとも今の℃-uteは栞菜がいないと成り立たない。そりゃ一日ぐらいは成り立ってしまうかもしれないけど、そういう一日はなんか足んないとは痛烈に感じた。

古語「愛し(めぐし)」は東北方言「めんこい」の源にもなった語でニ通りの意味がある。

めぐ・し 【▽愛し】

(形ク)

(1)たまらなくいとおしい。
「妻子(めこ)見れば―・し愛(うつく)し/万葉 800」

(2)かわいそうである。いたわしい。気がかりである。
「人もなき古りにし郷にある人を―・くや君が恋に死なせむ/万葉 2560」

「infoseek マルチ辞書」

第一義には現代の「かわいい」という表現に通ずるものがあり、果ては「萌え」にまで近接する可能性もあるとか。「萌え」もまた感情を表出する言葉であるから、「萌え」とは何かを探るとき古語にもその手がかりはあるかもしれない。

そして二義には「かわいそう」「いたわしい」と続く。いとおしいあまりにかわいそうなのか、かわいそうなあまりにいとおしいのか、この語の両義性は脱退以来めぐの持つ二面性だと思っていたけど、「℃-ute」はもともと「かわいい」という意、「めぐし」の第一義でもある。そして第二義にはそこに栞菜が当てはまるように感じた。

それは言わば℃-uteの二面性として。といっても表と裏ということではなく、栞菜は負を背負っているとかめぐの裏返しとかいうわけでもなく、℃-uteの持つcute(かわいい)に内包されるものとして。栞菜の見せる沈んだ面持ちはどこか℃-uteのcuteさにもつながっていくような気がして、それは℃-uteのかわいさだけを見ていたのでは見ることのできない、栞菜を通して見る℃-uteだと思う。ちなみに、形を変えて今なお方言に残る「めぐし」という形容詞はさらに形を変えて意味も変えて「めぐめぐする」という動詞としてごく一部の間で使われている。多くは希望の助動詞「たい」を伴って「めぐめぐしたい」となるか、さらに付加疑問の形を取り「めぐめぐしたいんでしょ?」となる。

「ディスコ クイーン」や「僕らの輝き」を全員で歌うときに、その「全員」にもちろん今日だけは栞菜は含まれていないんだけど、「栞菜を含めた全員」と言うときにそこに「℃-uteは7人」だというとっくに突き付けられていた当たり前の事実をようやく認められたような気がした。意地の悪い失礼な見方をすれば℃-uteは常に一人を欠いていると言葉の上では言えるけど、栞菜の一時的な不在から切望した「全員」はそんな考えを許さなかった。そこにはめぐは含まれず、めぐはただ不在という位置を占めるのみだと。

BYE BYE 今日という素敵な時間
BYE BYE 私の贅沢なあなたとの時間

これは絶対に止められない、巻き戻しできない、繰り返せない、忘れられない大切な時間。2年という時間がめぐってもなお。それと同時にいま脳内を℃-uteがかけめぐっているのもまた贅沢なことに思う。

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

今で言えばこいつは遠征ヲタだろう。しかも徒歩とかその気合は半端ない。終着の地大垣が後の世に遠征者の中継地点になっているとは知る由もなく芭蕉は大阪御堂筋で没したとか。そして今そこから始まる神秘を、神の秘するとも言う℃-uteの本質を、不能を前提に可能な限り分析してみよう。「生きるという力」や寝るキューで強く感じた「涙」という用意された答えはあるけど、NON NON簡単じゃつまんない。

「時計ないけど」

今度はそう言われることはなく、ステージは時計だらけになっていた。この一日が相当濃ゆいのは、ステージにある時計の数だけ時間を過ごしているから。その膨大な時間のまさにエッセンスとして1時間半のライブがある。
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2007年08月04日

アイドルの中の人


2007/7/28 「MUSIC FAIR21」 踊る!大アイドルソングス特集

アイドルソングス特集にあって「恋レボ」を歌うというのはそれ自体アイドルの歴史の中に位置付けられていることの証でもある。当時のメンバーが一人もいない曲、当時は誰も生まれていない曲、そういう曲を歌うことで歌は歴史性を帯びてゆく。ハロー!プロジェクトスペシャル企画でありながら出演者よりも歌の方が主役だったかもしれない。

「私は今生きている」
     (「17才」原曲は1971年)

「おしえてここは何処?私生きてるの?」     (「天国のキッス」1983年)

それぞれの歌詞全体における意味、時代性、歌い手などあらゆるものを捨象してただこのフレーズだけを取り出して聴いてみれば、アイドルはこんなにも死に接近していたのかと思う。こういう回顧的な企画はまさにそういう捨象のためにあるのだとも思う。この日に限っては誰が歌うかではなくて、何を歌うか。

「私生きてるの?」と問うほどにその生は不確かで、「今生きている」と何度も確認しなければまるで死んでしまうかのようだ。そこには「生きている喜び」よりも「死んでいない安堵」の方が強いように思われる。

この世界にいる者なら、つきつめるかはともかく誰もが一度は考える命題「アイドルとは何か」。アイドルが見せる生と死はその答えに最も近づけてくれそうな気がする。アイドルがアイドルでなくなったときに、そこにアイドルをアイドルたらしめていたものが見えるんじゃないかと。

だいぶ昔の00〜01年ごろだったか、よくあるサイト間における回覧形式のQ&A、今に言う「バトン」で「なぜモーニング娘。を応援するのか?」という問いがあり、これに対する答えの一つがこう言っていた。

「なっちが応援してと言ったから」

なぜなっちなのか?は自明のこととして省略されている。それは回答者がアピールしたいなっちへの気持ちの強さ(だってなっちだよ?そこらへんに転がってるアイドルじゃなくてなっちだよ?そのなっちが言うんだから応援するに決まってるじゃん)でもあるし、回答者の感情を離れれば「卵が先かニワトリが先か」的なロジックに陥り因果関係が倒錯するが、そこにアイドルにハマる契機すなわちそこから透ける「アイドルとは何か?」が見えるのかもしれない。

その生と死は「アイドルとして」にとどまらないことも残念ながらあった。僕はただその名前を聞き及んでいるだけだったけど、忘れてはいけないというか知らなくてはいけない21年前のできごとがある。人間として、アイドルとして、アイドルが死ぬとはどういうことか。

四谷四丁目2007

行き場があることが不幸中の幸いだと言われるけれど、舞波とかめぐとか言ってるのが恥ずかしくなってしまうくらいに自分にとってはやっぱり重い。全く想像もできないくらいに重くて重すぎる。なにがなんだかわからなくて想像のしようもないのではなくて、想像することすらタブーであるかのような本能がはたらいて想像できない。それくらい重い。だから重いとしか書けない。だってみんな自分の推しメンが…なんて考えるのもおぞましいでしょ?なんて書くこと自体がはばかられる。

しかしいま同じものを見ている人が当時を知り、かつそれを語ってくれるということはこの不幸にあっての、それを知らない自分にとっては幸いではある。

擬似的な経験はしたことがある。今年の初め、スポーツ新聞に「モー娘。吉沢事故死」の見出しを見た。それは折りたたまれて「弟」の文字が隠されていたもので、よくある常套手段に釣られたに過ぎないのだけど、その錯覚はなんとも言えない衝撃だった。擬似とはいえその瞬間だけは真実として迫ってきた。

こういうことを新聞記事にするのは不謹慎かもしれない、こうして触れるのも不謹慎かもしれない。でも事実を前にしてそれを乗り越えるためにはそこに何がしかを見出さなくてはならない。そこに僕が見たものは吉澤ひとみというアイドルではない人間だった。

この一件以降明らかに吉澤を見る目が変わった。吉ヲタでもモーヲタでもないから現場に行ったり発言をチェックしたりというわけではないけど、一人の人間として見るようになった。ヲタ目線ではないのかもしれない。僕にとってはアイドルではないのかもしれない。でもそれはアイドルとして死んだということではなくて、人間としての吉澤ひとみがその向こうに見えるようになったということだ。

一人の人間の死とアイドルとしての死はどこかで交差するのだろうか。アイドルとして死んでも人間として生きられる。人間として死んでも死して神格化されることもある。お互いがお互いを超越している。そもそも次元が違ってて、どちらが…という比べ方はできないように思う。

もっと乱暴に時代を横断すれば、「力石徹の葬式」(1970年)というのは力石という架空の存在を真実たらしめる行為だった。人間の葬儀と変わりなく遺影を飾り読経することで、キャラクター(虚構)の死を人間(実在)の死へと昇華させた。

アイドルという存在自体が人間の偶像化ならば、この葬式に言えるのは特定の思想に担がれたという経緯はあるものの、アイドルが擬人化されているということだ。人間を基に作られたアイドルが再び人間になろうとする。「人間性への回帰」とでも言うのか。

N.Y.の9.11と市原の9.11はどちらが重いのか。そう比べる時点ですでに間違っている。同じ天秤に乗せることはできない。N.Y.の方が重いに決まってるだろ、ということではない。より卑近なできごとに答えを求めることしか僕にはできない。

四谷四丁目の出来事に戻れば、命日には本名からとった「佳桜忌」という名がつけられているという。本名からとったというところにこれはアイドルではなく一人の人間の死なんだという命名者の意図せざる意図が感じられるとともに、逆に死ぬことで初めて一人の人間に戻れたとも取れてしまい、それこそそこに「人間性への回帰」を思う。殺したのは誰か?ではなく、死んだのは誰だったのか?ということだ。

本名とは別に芸名を名付けること。それは人間とアイドルを区別するための最も初歩的でシンボリックな行為となる。命名にまつわる民俗慣行があるように芸名の名付けにおいても業界内での慣例のようなものは存在するのだろうか。

ただ一つ自分が知っているのは、なぜそうなのかまでははわからないのだが、文字を二分した時に左右対称となるような字形にすると縁起がよいのだということ。例えば「田中麗奈」(「れな」ではない。そもそも芸名でもないけど)。ほぼ完璧に見事なまでの対称性を見せる。今でも言われていることなのかは定かではないが、少なくともこう言われていた当時にこの対称性は何を言わんとしていたのだろう。

本名を名乗る私人としての有り様は常に芸名を名乗る公人としての行動に影響を及ぼし、逆もまた然りということか。芸名をつけたからといって人が変わるわけじゃない、一人の人間として大切なことはアイドルとしても同じように大切だと。どんなに浮世離れしてもそれを忘れないための戒めとして。アイドルとして成功するか否か(何をもって成功とするかはまったくわからない)は結局はその人間性にかかっているのではないかと思う。良いか悪いかではなくて、それがいかに人に受け入れられるか。だから悪い人間性であってもそれが求められていれば受け入れられる。何とも捕らえどころのない「アイドル性」という言葉は、人間性を裏返したものでありえようか。どんなアイドル性といえども全く本人から乖離したところに存在するのではなく、常にその人間性によって裏付けされる、と。もちろんアイドルが人間だということではなく。

だいたい芸名というものの源はどこにあるのか?古典芸能の襲名に由来するのか?自分のものではない名を代々名乗ることから、やがて名を受け継ぐという要素が脱落して一人一人が別の名を名乗るようになった?

一人の人間が複数の名を持つことは決してまれなことではない。体の弱い子どもは擬制的に捨てられ、あらかじめ決められた拾い親に新しい名を付けてもらったりするし、幼名から諱への移行は元服に伴う通過儀礼として機能する。そして死を契機としてはそれまでの名は俗名となり、新たに戒名が与えられる。もちろん生前に名前を変えたりすることもある。

そこに見えるのはありがちだけどやっぱり「死と再生」なんだよ。新たに名前を付けるということは、それまでの自分が死に、新しい自分になるということなんだよ。芸名はアイドルに始まったものではないけど、業の深いこの世界では何度も二つの名の間を行ったり来たりすることを余儀なくされる。つまり死んだり生きたりする。芸名に安住していることも許されないし、芸名を名乗る以上本名に安住することもできない。

周知の通りハロプロでは基本的にすべて本名を名乗っている。いまハロプロ以外のアイドルたちはどれくらい本名を名乗っているのだろうか。つまり芸名を使っていないのだろうか。仮に芸名を使うアイドルが減ってきているのだとしたら、それはアイドルがどのように変わってきたことだと言えるのだろうか。

もちろん同時になぜハロプロは芸名を使わないのかという疑問にもたどり着く。当のつんくはあからさまな芸名であるというのに。僕たちが好んで「光男」の方を使う時に、つんくの中の人が光男なのか、光男の中の人がつんくなのかわからなくなってしまうような包摂関係の転倒が本名と芸名の狭間にあって往来する。

「中の人」と言うのも不思議な言葉で、それを使う時にはその人であってその人でない人を見ようとしている。「舞波の中の人」という時にはアイドル石村舞波の中にいる普通の中学生石村舞波を指す。舞波はアイドルを辞めたのでこれはわかりやすい例だけど、では「なっきぃの中の人」と言った時には「℃-uteのなっきぃ」の中にいる「℃-uteのなっきぃを℃-uteのなっきぃたらしめている(あるいは演じている)より本質的な性質」を指すニュアンスが強いと思われる。そして往々にして「中の人」には「裏」にも通ずるマイナスイメージがつきまとう。熊井ちゃんの中の人はなっきぃに歪んだ愛情をぶつけたりする。

この語源がどこにあるのかはちょっとググればすぐにわかってしまうことで、本当にインターネットの中の人はすごいと思う。それが既に「〜の人」という形を持っていたことから以後定形として流布されることになるが、なぜこれは「人」なんだろうか。言葉は刻一刻と移り変わり、「中の人」なんかは最もそういう類の言葉であるからこの先も定形のまま伝えられるか、あるいはこの用法自体が消滅するかはわからないが、少なくとも今まで「中の人」として命脈を保ち続けているのはどういうわけなのか。

日々増殖する用例をいくら集めたところで、そこから帰納的に本質を探ろうとするのはかなり難しいと思う。集め始めた時のニュアンスと集め終わった時のニュアンスが疎通しないほどに日々変化を遂げているだろうから。そこでそういう事情に乗じて、僕が見ている世界に限って(これは恥も外聞もない逃げの一手であるけれど。だって男だもん)もっともらしいことを言ってしまえば、「〜の中の人」が「人」であるのは「〜」の奥底にある人間性を指向しているということになるだろうか。アイドルにだってネットにだって人間性はあるという優柔な憶測のもとに、それは人間性に飢えているということの表れなのかもしれない。そして新しい用法として「〜」の部分に無生物が置かれた時、そこに人間性への指向性がよりはっきりと見てとれる(ex.天皇陛下の前立腺の中の人)。

と同時に視点を変えてみれば、「中の人」というのは言説レベルで語られる時のいわばキャラクターとして用意されていると見ることもできる。「ゆりなっきぃ」なんていうものはまさに友理奈の中の人となっきぃの中の人が言説の中でふざけあう戯れにすぎないのだ。

僕は人間が嫌いなのにどうしてアイドルは好きなんだろう。それはアイドルは人間じゃないと考えた時に自分でも驚くくらいに全く矛盾なく説明できる。人間ではないものに人間性を求めているのだと。あれ?矛盾してる?

加えて21年前の件には一枚の写真がつきまとう。死を写した一枚の写真が拍車をかけて様々な言説が飛び交うことになる。そこに見えるのは「人間の死」か「アイドルの死」か。のちにここから言説が生み出されることを考えれば、アイドルとしては死んでいなかったのかもしれない。

20年後、つまり1年前、時は過ぎて写真はカラーとなり、続けざまに何枚も撮られたそこに写っていたのは「アイドルの死」そのものだった。そこからはそれほどの言説は生み出されずにみな口をつぐんでしまったように思う。写真によって喚起されるのではなく、あの写真に黙らされてしまった。

「夜目遠目傘の内」。女性がきれいに見えるシチュエーションというその言葉はあくまでも人間の女性を指すのであって、アイドルを見るのなら明るくて近いところで傘の外にいるのを見たい。

ミュージックフェアを見た翌日、ハロコンで聴いたのは「そうだ!WE're ALIVE」だった。こんなところにもあったじゃないか。

「We're ALIVE SO 生きている THE 人間 そう そう 人間」

「アイドル リーマン ギャル子 ギャル男君 

 父ちゃんも母ちゃんもみんなみんな」

今まで吐いたダメゴトをすべてこの言葉の中に入れてしまうことができる。まさに愛情で包んでもらうように。ここではその包摂関係は逆転しない。アイドルに包んでもらう人、すなわちアイドルの中の人間性に包まれる自分。リアルタイムで聴いてた当時はそんなこと思いもしなかったのに。歌は世につれ。

そうやってこの曲も確かにこうして歌い継がれている。世は歌につれ。

アイドルは「踊らされる」と言われる。それでもいいと思う。ただ「踊る!」と言っておけば。死んでいてもいいと思う。ただ「生きている」といっておくことで。そこから踊らされている僕らは踊っているという自覚を持ちえ、死んでいる僕は生きているという実感を得る。

「でも嘘なんだよ」「あっ本当(中学生フォロー)」

LET'S ALIVE!

アイドルとは生きることと見つけたり。

アイドルの中の人はいつも大変。
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2007年07月22日

四方四季から読み解く「めぐる恋の季節」PV Bめぐる時間の不可逆性


四方四季の庭に関して小松和彦が独創的な指摘をしている。

「これは私の想像であるが、春から夏、夏から秋、秋から冬という順に『四方四季の庭』を見ると、主人公が地上の一年を体験したことになる。とすると、逆に冬から秋といったように逆回りでこの『四方四季の庭』を見て回れば、時間をさかのぼることもできたのではなかろうか」

(前掲「神隠し」)

これこそ禁断の果実かもしれない。できることならあの℃-uteの日に帰ってみたい。もう一度見てみたい。せめて届かなくてもお別れを言いたい。

だけど今の℃-uteがあるのは全ての過去のおかげだから、これは禁断のままにしておこう。あの日に帰ったら今の℃-uteはないかもしれない。それはやだ。えーい、こんなもの悪書だ!悪いに書と書いて悪書だ!青少年には目の毒気!(※実際すばらしい著作です)

季節はめぐる。逆戻りしないでめぐる。PVの四方四季が無時間性を示しているとしても、背を向けることでそれは否定される。「どんな時も前向きだよ」とは時間の不可逆性を言わんとする。

むしろ四方の四季を見ているのは僕らだ。確かにそこは理想郷で、時間だって忘れてる。本当に四方を四季で囲まれたら、逃げ場がなくて太郎のように帰れなくなる。そういう意味では現場は異界だ。「後ろを向いたらそこが前」とか言ってちゃダメなんだな。

「過ぎる」のではなく「めぐる」のは、「もう一度やってくる」という意味があるから(卒業とか脱退がまためぐってくるのはもういいかげんに…)。時計の針は戻らないけど、一回りしてまた同じ時間はやってくる。

「めぐ」と読む「愛」はすなわち「めぐりあい」。きっとまた出会いがある。

例えば感謝祭の組分けで、本来二分できないものを+αを加えることで二つに分けることができる。櫛の歯が欠けるようにあったそこに加えられたのは全く同じではないけれど、欠けた歯と同じだけの時間を抱えた二人。

浦島はおみやげにもらった玉手箱を開けて老人となるけれど、自分も近々℃-uteからおみやげをもらうことになっている(と信じて疑わない。なんせ大量のハズレ券が…)。

来場者全員にプレゼントがあるよ♪
しかも!!!プレゼントは退場時にメンバーから手渡しされるよ♪♪♪
(「MAGICAL CUTIE 感謝祭」チラシ)

まさか開けるなとは言われないだろうけど、これはすぐに開けるべきだろうか?(開けなきゃもらったとは言わないよ)それとも開けずに余韻を楽しむべきか?(ヲタの習性永久保存)

一体どうすればいいんだ…。そうだ、とりあえずカメを助けるところから始めようか。そういえばきら☆レボにカメがいたっけ。カメ〜?どこ〜?カメを助けにきましたぁ〜。

浦島の玉手箱には時間が詰まっていた。℃-uteからもらうおみやげにもきっと楽しい思い出の時間が詰まっているはず。それは理想郷で忘れた時間。

「めぐる」のは時間を逆戻りすることでも、同じ時間を何度も過ごすことでもない。

「大人になった気がするよ」

気がするだけかもしれないけど、それくらいほんのちょっとかもしれないけど、大人になっている。愛の意味を教えてもらうのではなく、自分で考えてみるくらいには。

それは過去を振り返っているばかりでもなく、現在の刹那に執着するばかりでもなく、どんな時も前向きにめぐる季節をすごしているから。だからこそ僕は大人ではないのかもしれない。
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2007年07月21日

四方四季から読み解く「めぐる恋の季節」PV A禁忌の有無をめぐって


四方四季を同じくその構造に持つ昔話に「鶯の浄土」(IT86)と呼ばれる話型がある。「見るなの座敷」型とも言われ、座敷のほか倉であったり箪笥であったりに四季の風景や田んぼの四季の様子が収まっている。それを見てはいけないと言われていた主人公は結局その禁を破り、得たものを失うという話。


鶯の浄土(IT86)

若者が、祭りで見かけた美しい娘を見染めてあとをつけると、娘は野中の屋敷に入っていく。男は道に迷ったと偽って、一夜の宿を乞うと娘はこころよく承諾する。娘が、毎日ごちそうをふるまいもてなすので、男は帰ることも忘れてそこに留まる。

ある日、娘は若者に、四つ目の倉だけは見るな、と言い置いて出かける。若者は次々に倉を開けて四季の風景に見とれるうちに、四つ目の倉を開けてしまい、そこから鶯が跳びだす。

娘が戻り、姿を見られてしまったことを告げ、鶯となって飛び去ると、屋敷は消えて若者はもとの野中に立っている。

※適宜改行    (稲田浩二・稲田和子編「日本昔話ハンドブック」三省堂、2001)


面白いのは「見るなの座敷」型の昔話においても浦島説話においても共に禁忌を備えているということである。「見てはいけない」と「開けてはいけない」という。

結局のところ、めぐは禁忌となったのか?めぐを「語ってはいけない」のか?こちらとしてはそんなタブーがあっても当然破るけど、常識的に考えればメンバーがめぐを語ることはまずありえないに決まってる。

ただ脱退して間もないころ、ほんの少しだけ語られたことはあった。


矢島「で、まぁ、あと、めぐが…学校にね、専念するって言って…℃-uteを脱退しましたが…」

梅田「悲しかったねぇ…」


CD「〜キューティーぐだぐだクリスマス〜」


「かなしくって かなしくって かなしいとき 

 やっぱりかなしいって 私言うのかな」

やっぱりかなしいって私は言った。いなくなることへの悲しさとそしてたぶんそれをどうすることもできない悲しさに。

無くしそうに なった時に 初めて気づく 大事なそのコに

トがない。なくていい。だってそのコに科はないから。禁忌にはなっていないとそう確信する。「めぐ恋」の歌詞カードを見てみればちゃんと「愛」の上には読み仮名が振ってある。
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2007年07月19日

四方四季から読み解く「めぐる恋の季節」PV @無時間性の有無をめぐって


「めぐ恋」PVの背景に見えるのは四季の風景を描いたセット。その場にいながらにして四季の景色が見渡せるそれは、中世文学に多く見ることのできる「四季づくし」や「四方四季」と呼ばれる表現型式に類似している。

四方四季は主に庭などに四方に広がる四季の風景を語り倒すもので、現実離れした情景から多くは異界の象徴として解釈される。

なかでも人口に膾炙していたのは御伽草子「浦島太郎」に登場する四方四季で、太郎が竜宮で過ごす描写のほとんどはこの四方四季に終始している。誰もが思い浮かべる「タイやヒラメの舞い踊り」は、記紀にまで遡ることができる浦島説話にとってみれば唱歌に歌われた明治末からのいわば創造された伝統にすぎない。

その解釈においては、四方四季はその場が理想郷であることの表れとされ、しばしばその無時間性が問題となる。四季が一度に見られるような場所は現実ではない異界であって、時間という概念がない(季節が移ろわない)ためにいつでも四季が見られるのだと。こと浦島説話に関しては竜宮城との時間の齟齬が大きなテーマとなっているため、無時間性は必然的に重要な要素となる。

「そこが移ろう時間の存在しない世界つまり永遠の理想郷であることを象徴する様式としてあったとみなくてはならない」

(徳田和夫『お伽草子研究』三弥井書店、1988)

「四方四季の景が浦島物語(御伽草子)に受容されたのは、訪れた異界が時間のない世界であるということを語るためであり…」

「竜宮城にも四季はあるが、春夏秋冬はそれぞれ、部屋の四方の壁の窓に景色として同時に映っているのであって、季節から
季節への時間の流れはない」

(岸田秀「時間と空間の起源」『ものぐさ精神分析』中公文庫、1982)

また、小松和彦は四方四季の機能について言及している。

「この『四方四季の庭』を一回見ると、それで一年を瞬時に見る、つまり体験することになると考えられていたのである。(中略)『四方四季の庭』とは、人間の時間を早送りするための装置であったというわけである」

(小松和彦「神隠し」弘文堂、1991)

小松の言う機能に従えば、℃-uteは時間を早送りして歴史を身に纏おうとしてる( 「Berryz工房という空間、℃-uteという時間」 )とは言えまいか。

この四方四季の情景を見るうちに太郎は望郷の念にかられる。

「故郷の父母を見すて、かりそめに出でて、三年を送り候へば、父母の御事を心もとなく候へば…」

(市古貞次校注「浦島太郎」『御伽草子(下)』岩波文庫、1986)

つまり太郎は四季の景色に見とれるうちに父母が恋しくなって帰りたいと願うのだ。これに対して℃-uteは四季を背にして歌い放つ。

「パパもママも知らない間に 僕らは恋を知るみたい」

四季に見とれるのではなくそれを背を向けて歌うということは、四方四季の表す無時間性を否定することになる。限定盤のCDには晴れマーク、通常盤には晴れと傘マーク雨(クネクネ)、そしてシングルVではまた晴れ。晴れも雨もあって季節だけではなく天候もめぐるし、「どんな時も朝が来る」ように昼と夜もめぐる。

つまりそこに無時間性はなく、時間は確実にめぐるということだ。

あのセットは℃-uteという時間を(未来も含めて)可視化したものだと言える。空疎な空間は背景の四季を、めぐる時間を際立たせる効果を持つ。必然的にあのスタジオには四方四季のセット以外には何も必要はなく、空間は不可視化されなければならなかった。

可視化されたその時間はメジャーデビューから始まるものであるけれど、あえてそれ以前に遡るとすれば、やじうめが傘をさすシーンと黒板に書かれた相合い傘は℃-uteの歴史には欠くことのできない負の記憶としてそれなりの読み方をすることもできる。

「時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する」
(岸田秀「時間と空間の起源」前掲)

めぐりめぐってたどり着いた℃-uteという時間は確かに悔恨に発している。メジャーデビューの春を遡ること、冬に入ろうかというあの日の悔恨に。
「無意識においては時間が存在しないことをフロイドは発見した。無意識にはいっさい、矛盾がなく、抑圧がなく、すべては可能であり、空間の障壁も存在しない。(中略)意識においてはじめて時間が現われる」

ならば時間とは制約であり、枷だ。時間があるということは矛盾があって抑圧があり、すべてが可能ではない世界だ。そういう世界に℃-uteは生きなければならない。

「BOY 意識をした時 なぜか照れくさいね」

「GIRL 明日も会いたい」

意識をすると照れくさいけど、そこから明日という時間が生まれる。意識して℃-uteを見ようと思った時、そこから℃-uteという時間が始まる。「無限なこの夢」も無限という時間。

いくら金をかけたかじゃなくて、そこから何を読み取るかだよね、ミヤブー!読み取るのはタダだしね。一泊2000円とかかからないから。いや、でもおかか・シャケ・葉唐辛子のおにぎりとか実際ノリマツとイシゾーが握ってたら2000円どころじゃないよな。一粒2000円でも食べたい。いつか本当にハロショで売りそうで怖い。写真付きで。幽霊より人間より事務所の中の人は怖いからな〜。
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2007年07月15日

「めぐる恋の季節」(Close-up Ver.)をめぐって


「桜チラリ」に比べると目まぐるしくソロカットが入れ替わる、限定盤特典の「めぐ恋」Close-up Ver.。その正確な把握のために該当部分の検証をしてみよう。

ユニゾンが多く、ソロパートを持つのは愛理と舞美しかいないことを考えれば、予想としては7人全員が公平に扱われつつもこの二人だけはやや飛び抜けた傾向を見せるのは想像に難くない。まずはソロカットの回数から。


「めぐる恋の季節」(Close-up Ver.)ソロカット数(全125カット)

鈴木 21回
矢島 20回
有原 19回
梅田 18回
中島 17回
岡井 16回
萩原 14回

予想通りに愛理と舞美がトップを占める。次いで栞菜が多いのは愛理とのノリマツ・イシゾー効果だろうか。


※ノリマツ・イシゾー効果(N.I.E.=Norimatsu-Ishizo Effect)

露出の多い愛理に便乗することで自らの露出を図る行為。「雅ちゃんと2ショットになることで画面に映るハピネスの舞波効果」とも言うが、長いしもういない人なので、そもそも舞波を知ってる人が少なくなってきているので使われることはない。
あるいは逆に愛理がうまく露出させていると捉えることもできる。その場合にはかつて身長を比べることで栞菜の露出を図り、ついに至らなかった者との対比が余儀なくされる。しかし単に「相乗効果でライバルいっぱい」と言えばいいような気もする。


全125カットを7人で等しく配分するとすれば、17.85…となり、一人当たり17、18カットは当然に与えられたものであると言える。±1は許容の範囲内であるなら、やはりトップ2の飛び抜けが目立つと同時に萩原の14回という数字がことさらに低い。理由はだいたい見当がつくのだが、もう少し詳細にカット数を追ってみることにしよう。

同じ1カットでもその時間には差が生ずる。そこで各カットをコマ送りしてそのコマ数を比較してみる。使用機種はパナソニックDMR-E80H(古っ!)。1秒間に60コマがあり、1コマ当たりは0.01666…秒となる。

パートごとのカット・コマ数は下表に譲るとして、ここではパートを考慮せずソロカットの順番とカット数のみを示す(数字がブレて見づらい点ご容赦ください)。


「めぐる恋の季節」(Close-up Ver.)ソロカットコマ数


矢島=Y
梅田=U
中島=N
鈴木=S
岡井=O
萩原=H
有原=A


S 54
Y 30
H 26
U 24
O 18
A 26
N 26

S 124
Y 144
A 54
H 50
N 100
U 98
O 100

A 100
Y 72
O 18
U 18
A 14
N 14
H 24
S 104
O 58
N 94
U 42
Y 38
A 60
S 72
A 208
S 146
U 158
Y 126
A 60
S 58
O 98
N 100
H 168
S 102
Y 104
U 100
A 98
N 94
H 116
O 100
A 92
Y 96
N 122
U 70
A 62
H 48
S 66
Y 40
U 36
S 182
A 64
O 26
N 40
U 86
Y 136
S 66
H 50
N 104
O 104
H 146
N 114
U 146
S 154
O 198
Y 110
N 100
A 124
Y 134
O 70
S 168
N 68
H 86
A 114
U 104
Y 196
O 188
S 486
Y 516
A 94
N 28
U 28
O 42
H 60
S 76
Y 76
U 100
N 58
H 52
Y 144
U 104
S 120
U 30
A 40
Y 42
O 22
S 52
H 50
N 100
A 154
S 64
O 140
Y 100
U 104
S 114
A 94
N 102
S 80
H 90
Y 74
O 66
U 90
A 44
N 40
Y 68
S 82
O 88
A 42
H 66
U 38
Y 38
S 202


ソロカットが現れる順番にこだわって見てみれば、前奏の7コマと歌い始めの7コマにおいては一人ずつ姿が見え、7コマを単位として一人ずつ登場するという規則性が見出せるものの、以降はそれも崩れている。全編を通じてなんらかの規則性を見出せるならば、それこそ「めぐる恋の季節」の「めぐる」たるゆえんになろう。しかし公式を使わずに解く数列の問題が唯一の得点源だった者としてはこれ以上は踏み込めないのだ。

PVは全3分20秒(200秒)であり、冒頭のタイトルクレジット(8秒間)を除いた本編は3分12秒(192秒)。「192秒×60コマ=11520」で理論上は11520コマ以上なくてはならないのだが、集計の結果は11448コマ。72コマ以上が不足している計算になる。機種性能の限界に由来する可能性もあり、あるいは集計時の計算ミスであるかもしれないが、全体から見たときに0.6%という数字は誤差としては適切な範囲内に収まるといってよいだろうか。したがって下記( )内のメンバー別秒数を集計した時にも191秒となり1秒が誤差となる。ひとつ余計なことを言えば集計した11448は8できれいに割り切れる。


「めぐる恋の季節」(Close-up Ver.)メンバー別総コマ数


鈴木 2572コマ(約43秒)
矢島 2284コマ(約38秒)
有原 1544コマ(約26秒)
梅田 1376コマ(約23秒)
中島 1304コマ(約22秒)
岡井 1336コマ(約22秒)
萩原 1032コマ(約17秒)

ソロパート部分の

鈴木 486コマ
矢島 516コマ

というコマ数の多さを除外してもやはり2トップの飛び抜けが目立つ。むしろコマ数で比較した方がその差はより開いている。全11448コマを平均すれば一人当たり1600コマ以上にはなる計算だがそれを上回るのは二人だけ。

最多の愛理と最少のまいまいを比較した時にはその差は2.5倍以上にもなり、これが一票の格差であれば衆議院なら違憲もあわやという数字である。まいまいヲタ提訴!みたいな。ただそこはきら☆ぴかという補償がなされているので訴えの利益はないから却下!みたいな。それなんて嗣永憲法?

ともかく明らかになるのは2トップの飛び抜けと萩原のカット数の少なさ。前者は予想の範囲内であり、後者についてもきら☆ぴかという説明がつく。では、その補償がない場合には萩原の立場はどうなるのだろうか。同様にClose-up Ver.を持つ「桜チラリ」を取り上げることでそれを検討してみよう。

「めぐ恋」でもわかるようにコマ数の多寡はソロカット数順位にはほぼ影響を与えないと思われるため、コマ数は除外し、ソロカットの順番と回数のみを対象にする(めんどくさいとも言う)。


「桜チラリ」(Close-up Ver.)ソロカット数

(※)はソロパート





S(※)

S(※)


YS
OH
UN
AS
Y(※)
S(※)









YS
OH
UN
AS
H(※)
S(※)












H(※)
S(※)


















2ショットの部分を除けばソロカットは全52回。

鈴木 11回
萩原 8回
矢島 7回
中島 7回
有原 7回
梅田 6回
岡井 6回


2トップ以外に唯一のソロパートを持っていることもあって萩原のソロカット数は鈴木に次いで第2位。少ないサンプルでの結果とはいえ、少なくとも他と比べて目立って少ないというわけではないのだ。

翻ってみれば「めぐ恋」での少なさはやはりきら☆ぴかに起因しているものだと見ることができる。ただ補償というと損失の穴埋め的なニュアンスがあるけど、「めぐ恋」のソロカット数を犠牲にしてもきら☆ぴかがいかにおいしいかは言うまでもない。

「桜チラリ」「めぐ恋」両者のソロカットはいずれも愛理で始まり舞美→愛理で終わっている。2トップの重みはそれを無くしそうになった時に初めて気づくのか。いや、もう充分わかっているから気づかなくていい。
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2007年06月03日

憑依神格としての月島きらり


月島きらりとは何者なのか?

例えば恐山のイタコ(だいぶ観光化されているとか)に代表されるような口寄せ巫女。死者が憑依し、死者の言葉を語るイタコに対して「あなたは死者そのものではない」と斬り捨てるのは簡単なことだが、たしかに肉体はイタコのままであってもそこに死者が宿るようにふるまい、周りは宿ると信じることでそこに事実とはまた違う真実が生まれてくるのである。

同様に月島きらりを指して「お前は久住小春だ」ということもできない。「騙しますよ―騙されますよ」という共犯関係の下に小春ではないと作為的に信じてあげるというよりも、いわばトランスする巫女によってこちら側もトランスの変性意識の渦に巻き込まれていくのだ。

「月島きらり starring 久住小春(モーニング娘。)」と表記されながら、一向に月島きらりその人として出演し続けるのもそこにある。巫女が太鼓を叩くリズムに自身も周囲もだんだんと陶酔していくように、出演し続けることで僕らも、もしかしたら小春も共にトランスする世界を作り上げていく。

トランスに陥るには単調なリズムの繰り返しが有効であり、そういう意味では音階の少ない(ほぼない)きらりの歌声は理想的ですらある。

憑依前の一人間の人格としての久住小春と、憑依した神格としての月島きらり。つまりシャーマンとしての月島きらり。シャーマニズムとしてのきら☆レボという世界がそこに見えてくる。

シャーマンは脱魂型(ecstasy)と憑例型(possession)に大別することができる。脱魂型は自らの体内から魂を飛翔させて神霊の元へ出向き交感する。逆に憑霊型は自らの体内に神霊を呼び寄せて、自らの身体をもって語らせる。

きらりが「山の頂上」で両手を空に掲げるのはアイドルとして頂点に登りつめたことのみならず、天上にいる神霊に少しでも近づいて交信を図ろうとしているのであり、両手の羽は依り代として機能し、そこには憑霊型の特徴が見て取れる。羽が空を飛ぶためのものとして機能しないことは「ジャンプ」の否定とも符合する。

おはスタで明らかにされたように「ハッピー」という歌詞は当初「ジャンプ」であったが「歌えない」とするきらりによってディレクターを押し切って強引に変更された。これはつまり「ジャンプ」は脱魂型に見られる魂を「飛ばす」行為を意味しており、それを明確な理由なく否定するということはすなわち脱魂型ではないことへの本能的な表明だと捉えられる。

また日本を含む東アジア全体を俯瞰した時にも憑霊型に分布的な優勢が認められる。「☆彡」はまさに憑霊の際に天上から降りてくる「何か」を示しているのだ。

その「何か」とは何か?それ自体が神というべき存在なのか。それが憑いたきらりが神となるのか。きらりは神なのか、それとも神を媒介する存在なのか。そもそもアイドルとは神なのか?そこから導かれる疑問は、

「アイドルの世界って祭政一致してる?」


hugoppe.bmp

「両手が空に届きそうだよ」の図(北海道・フゴッペ洞窟)

ここでは描かれた人物の手は下げられているが、羽が両手を補助するものとして天に向けて掲げられている。

このような有翼人と呼ばれる線刻画は北方系シャーマンを模したものだとされ、国内では北海道での2例しか確認されていないが、もう一方の手宮洞窟の案内板には

temiya.bmp

とあり、土器の伴出関係を直ちに線刻画と結びつけることはできないものの、新潟県がその範囲に含まれる点には留意すべきと思われる。

また前作「バラライカ」はロシアの弦楽器であり、多くトランス状態に陥る際に使用されるのは打楽器ではあるが、 「梓弓」 のように震える弦に霊性を宿す、明らかに依り代としての機能を持つ場合もあり(※1)、バラライカに憑霊の手段としての意味を与えることもできる(※2)。それが北方系シャーマニズム本貫の地、ロシアの楽器であることも大いに示唆的である。



リンク先:「国立民族学博物館HP」より抜粋

梓弓

古代より霊を招くために使われた巫具の一つである。(中略)音を出すためには細い竹の棒を使用する。イタコは一心不乱になり竹の棒で弦をたたき、ビュンビュン音を出して霊などを梓弓に宿らせ…

※1

大相撲の弓取り式に用いられる弓も、矢がないという点で弓矢の弓ではなく霊的な作用(依り代?)としての意味が見出せるかもしれない。

※2

シベリアのシャーマンがバラライカを使うのかは定かではないが、弦楽器という点で言えば、例えばウズベキスタンの「ユーバス」は昔シャーマンが使用したため聖なる楽器と言われているのだという。
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2007年04月11日

悲しみなら時間に消えるから 〜「桜チラリ」PVを読み解く〜


℃-uteが常に時間というフィールドにその思想を根付かせていくのならば、そこから外れていくものもまた時間の中に押し込められる。

「桜チラリ」PVの宇宙船内ではいろいろな物が重力を失って浮遊している。赤いマグカップに白いマグカップ。電気スタンド、花瓶と花。電話と時計。千聖と舞と小さいタンス。

円形の時計には上下を示すものがなく無重力状態にあって正確な時刻は読み取れないのだけど、例えば「即抱き」のジャケ写で示されたように栞菜が合流した1月28日を時計の盤面に置き換えて1:28と表せるのならば、ここで浮遊している時計の時刻を10:31と見ることもできるのではないだろうか。ある意味これも℃-uteにとって意義ある忘れてはいけない時間。

「※村上愛は2006年10月31日をもって、学業に専念する為「℃-ute」を脱退しました」

船内で浮遊していた物々はもう一度今度は重力を得て(居場所を与えられて)背景に映り込んでいる。ただ時計だけが梅さんとなっきぃに見送られたあのとき限りにしか見ることができない。つまりどこかへ行ってしまった。

「悲しみなら時間に消えるから」
    (「JUMP」)

℃-uteは10.31という悲しみを10:31という時間に押し込めて葬り去ろうとしていた。

神無月のつごもりの悲劇。ミルクをくれる笑顔の神様なんて本当にいなかった。あと一日遅ければ帰ってきてたかもしれないのに。神無は栞菜でもあるようで、売店でごっつんこするのはめぐから栞菜に取って代わられていた。

文字盤で見ると1:28と10:31はまるで鏡像のごとく対称をなしている。加入と脱退、異なる転機の内に表裏一体としてあるのは新しい℃-uteの始まり。

長針はまだ文字盤の6にあたる部分を過ぎていないように見えるから、これを10:29と見て、メンバーはめぐの脱退を公式発表3日前の10月29日に知った、あるいは何らかのお別れをしたと考えてみることもできる。

日曜日、事務所に緊急召集された8人が別れの円陣コールとか…するわけないか。「8人そろって、はぢけるゾーイ!」のあと、あえてめぐには視線をやらずに無言のまま1人と7人に別れる℃-ute。めぐが何をしてしまったのかくらい、まいまいにだってわかる。顔を合わせることすらなく別れることになったのが実際だと思うけど、それくらいの夢は見させてください。

「夢を見たわ あなたの夢」

でもなんだか泣けてきて…夢の話なのに。とにもかくにもいつまでも会えない現実。

上下左右に重力が与えられた船内を見て真っ先に思い出したのは「ドラえもん」の「重力ペンキ」(コミックス第5巻収録)。狭い我が家でクリスマスパーティーを開くことになって困っているあばら谷くんに、ドラえもんは塗ったところに重力が生まれる重力ペンキを使って壁や天井に新たなスペースを作る。

PVを作っているのはどういう人なのか全然知らないけど、もしかしたらこの話を知っていたということもあるかもしれない。

よく見ればあばら谷くんの家も兄弟と母親合わせて7人で、 殺された父親にめぐをみた 応援企画第8弾と重なる。第8弾はクリスマスSPでもあって、クリスマスパーティーの会場となったあばら谷家同様、そこに父親はいなかった。いやたぶん昼間だから仕事に行ってるだけだ、きっと。
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2007年03月30日

友理奈とイチゴの関係

straw.bmp


「春」というテーマでイチゴを描く友理奈。しかも擬人化。友理奈にはイチゴが話しかけてくるように見えるのだろうか。輪郭の逆三角形と、それに重なるヘタと眼と頬が織り成す正三角形。それは友理奈が嫌いなイチゴをわざわざ描くという相克。

塗り潰していないタネが汗のようで、イチゴが焦っているように見えるけど、そんなことよりも友理奈が食べられないはずのイチゴを描いたこと、これが何よりも重要な事実なのです。そこには見えない何かがあって友理奈はイチゴを描いている。

もしかしたら友理奈はイチゴを食べようとしてるんじゃないか?もしかしたらあの写真にはわざと空白を作っていたのではないか?そう思うことでその何かを見ようとしてみる。


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2007年03月11日

Berryz工房という空間、℃-uteという時間


「この一年に限って」という注釈をつければ、Berryz工房の思想は空間に根付き、℃-uteの思想は時間に根付く。思想というと難しげな話になっちゃうけど、ここでは思いとか想いとかいろいろなオモイという意味で。

横アリや中野、よみうりランドといういわばホームがあることを前提とした上で、ベリは普段とは違う空間に進出した。小学校の体育館に始まってプロレスリング、国技館、そしてSSA。もう少し遡れば電車の中とか。そして年齢制限がついていた電車から振り返って見ればキャパがだんだんと増えていることに気付く。

SSA完売を報じた BARKS での「私とメンバーの雅ちゃんは、うれしさのあまり泣いてしまいました」というキャプの発言。誤解しやすいのは、二人が泣いたのはチケットが完売したからではなく、SSA単独公演の報告を受けてということ。二人はいわばSSAという場所に泣いたのだ。それだけ特別な意味を持つ空間(さいたまSAと書くとさいたまサービスエリアみたいなので、SSAでエスエスエーの方がやっぱりカッコイイ)。

対する℃-uteは次々と記念日を設定してゆく。

9/10は言うに及ばず、6/11には平塚(Remember!)の楽屋と思われるホワイトボードに命名1周年の言葉が見られたし、「大もて」のジャケ写では時計盤を模して栞菜の合流(1/28)を記念した。そして昨年後半からのメジャーデビューDVD(9/6)、同アルバム(10/25)、同シングル(2/21)。

こうして記念日を作るということは、つまり多くの節目を穿つということは、歴史の上にそれぞれの時代ができるということ。命名から始まり、栞菜の合流以前以後、メジャーデビュー以前以後というように。それはもはや言われなくなって久しい本体≠ェ〜期という名称で時代を区切って歴史を創出していった手法に似ている。

たくさんの時代ができることによって同じ1年でもその歴史は厚みを増す。つまりは一日が相当濃ゆいのです。どんどん区切りをつけていくことでいわば℃-uteは次々と過去を作りだし、日まだ浅い歴史を補おうとしていたのだ。

それは生態史観じゃないけれど、℃-uteという生命体が歴史を纏うことによってベリに追いつこうとしているように見える。「JUMP」で歌う「生命の神秘」の時に指さしているのは、生命の象徴である心臓のようであってその実℃-ute自身なのである。℃-ute自身が生まれる、もしくは生まれ変わるという神秘。もちろんその前に涙があり。



「今回の曲はいままでいただいたなかで、初めて季節が入ってるんですよ」

「kindai」2007年4月号


舞美の言葉通りに℃-uteは春という時間を与えられて、霜の冷たさを過去に追いやり時代を作って越えてゆく。

ついでに言えば舞波の卒業は東京厚生という共通の「場」に結びついて記憶されるけれど、めぐの脱退には共有されるべき「場」はない。

もっともめぐの脱退に関しては「場」の喪失だけでなく、事後報告だったからなんだか時間軸もあいまいでうやむやにされた感があって全ては時間も空間もない闇の中。

負った傷をただ癒す時間も含めて、すべてが意義ある貴重な時間。そうして℃-uteはひとつ足りえる。

暖冬の影響でいつもより開花が早い桜と逆に遅くなる桜があるとか。デビューしてすぐにチラリと咲く木もあれば、三年かけて満開になる木もある。時間差はあっても両方見れるのが一番いいんじゃない?今年ほど桜が咲くのが待ち遠しいことはないよ。

Berryz工房という空間、℃-uteという時間、そこに生きるという力。

生きゆく力がすごいのは、一度死にかけた歴史を持つから。


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2007年02月21日

越境としての「チラリ」


チョキの間から「チラリ」と何かを見る時には、自分が立っている此岸と覗き見る先の彼岸がある。一方の世界からもう一方の世界へ、いわば境界を越えようとする意図を「桜チラリ」から読み取ろう。

℃-uteが単にベリの後追いをしているのではない点はインディーズを経ているということ。いきなりメジャーデビューをしたベリに比べると、結成からもうすぐ2年という時間をかけてようやくあのころのベリーズに肩を並べようとしている。インディーズを経ることに一体どれだけの意味があるのかはここでは別に、あくまでも形式として。

DVD、アルバムときてメジャーデビューの仕上げとしてのシングルリリース。これをもって℃-uteはメジャーへと進出する。インディーズからメジャーへの越境。

もうひとつ℃-uteが越えるべき境界は8人の世界と7人の世界の間に横たわる。「桜チラリ」に込められた新7人での初めての楽曲≠ニいう意味。何もかもが新しい世界に来ただけでは始まらない。7人の℃-uteが作っていく、そのための「桜チラリ」。8枚の花びらが散るジャケ写は7人の世界への越境。

そして桜の木に見立てて6人が周回するのは、昨年の友理奈と同じ立場にあって越境を体現する愛理。まさに「にょきにょき」と。

℃-uteは「チラリ」と境界を垣間見て、足元を確かめたのちに「JUMP」してそれを越えてゆく。跳躍するまさにその瞬間を見ていられるなんて、こんな幸せなことないよね?

「So Cute!」で三人がいるのもまた橋という境界上であり、その名を桜橋という。

エッグから越境してきた者。
今まさに前列へ越境してきている者。
もう少しで中学へと越境しようとする者。

過去・現在・未来の越境者は背を合わせることで後ろ≠ニいう概念をなくす。ぐるりと360度、進んだ方向が前。交差する境界上で前へ進んでそれを越える。

ああ「桜チラリ」。
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2007年02月17日

Berryz工房単独コン分析A ソロ曲をめぐって(2)


(1)を踏まえれば単独コンのソロ曲は以下のようになる。

まるごと…「トロピカ〜ル 恋して〜る」(夏焼)
スイッチ…「Bye Bye またね」(石村)
にょき…「安心感」(熊井)
夏夏…「Yeah!めっちゃホリディ」(菅谷)

注目すべきはスイッチON以降のソロ曲はいずれもまるごとで歌われている曲だということ。ソロ曲の祖型とも言うべきものがまるごとに凝縮されているのだ。その点ではソロ曲に関しては常にまるごとという原点に回帰していたと言うことができる。

ここでSSAを飛ばして続・桜満開へと目を向ければ、ソロ曲は前列で唯一歌っていない嗣永が、まるごとのセットリストの中から歌うという予想ができる。ソロで歌えそうな曲ってなんだろ。パッションとかいいなぁ。桃子の一人パカパカ。

SSAを飛ばしたのはこれまでの論理には収まらないスッペシャルであってほしいから。一人一曲ずつソロで歌うとか。同様にスッペシャルであった「Bye Bye またね」のように、メンバーと会場みんなでBerryz工房に向けて歌うのもいいかも。

曲は「Berryz工房行進曲」。「あなた」も「私」も出てこない代わりに「僕ら」と「Berryz工房」がいる行進曲。会場がそのまま曲世界になる。勇気もチャンスも自分で作るもの。「自分」は「僕ら」でもあり「Berryz工房」でもあり。

今日という日につながったわずかな喝采を思って…

JUST DO IT! LET'S GET TOGETHER!
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2007年02月08日

赤と白


capwhite.bmp


「胸さわぎ スカーレット」というタイトルと赤を基調とした衣装から推し量れば、PVで飲んだミルクはその色の対比によって語ることができる。そしてそれは単に紅白という色彩の取り合わせにとどまるものでもない。

ここで歌われる「スカーレット」はPVで見るように口紅の紅。いわば身体を飾る赤。これに対するミルクの白は何もない白紙の白。装飾を脱ぎ捨てる白。

目にはマスカラ耳にはピアス、眉を整え肌には化粧水。髪は言うに及ばず場合によっては鼻にピアスをすることもできる。その中で赤と白は常に隣接している。すなわち口紅の赤と、女性の顔にあって唯一装飾を施さない歯の白(歯磨きはもちろん漂白をすることもあるけど「化粧」という意味においてはってことで)。口紅を塗ったベリーズがきれいなのは鮮やかな赤とそこに白があるから。

文化人類学的な解釈をすれば「赤と白」は「血と精液」で生命の豊穣を表し、民俗学的に解釈すれば女性の持つ「赤不浄・白不浄」が示すケガレへと導かれる。そしてBerryz工房的な解釈をすれば、彼女たちは赤で装飾を施し、白でそれを取り去ってPV撮影を終えるのである。

「お疲れさまでした。ごちそうさまでした」と。
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2007年02月05日

欠如から始まる物語


物語は往々にして欠如から始まるのだという。そしてその欠如自体が、またはその欠如を埋める過程が物語になりうる( 「ウルトラマンの構造分析」 4.欠如とその補填)。

「桃太郎」は子のない老夫婦が偶然に子を授かって物語が始まる。「花坂爺」は花のない枯れ木に花を咲かせる物語。物語の出で来はじめの祖=u竹取物語」もやはり子のない老夫婦が竹の中に娘を見つけ、最後には月に帰るという欠如で始まって欠如で終わるパターン。

「ドラえもん」すらもペットという野比家に欠けた空白にネコ型ロボットが滑りこんでくるところから始まる。歌ならば「傘がない」とか。合コン→W→ミニモニ。→ブレーメンという無理矢理なつながりですよ。

「missing…」を繰り返す「蝉」はまさに欠如の表れであるし、欠けてはいけないからこそ「あなたなしでは生きてゆけない」のである。「さぼり」にしても「無言が続くけど…」と歌うように会話の欠如がそのまま曲の始まりになっている。まさに欠如から始まる物語。

ここでさらに前掲サイトで「欠如とその補填」型とされた分類を「欠如型」と「補填型」に分けることができるとする。欠如そのものがドラマになりうるものが「欠如型」。欠如を補填する過程がドラマになりうるものが「補填型」。「欠如」と「補填」のどちらに重点を置くかということ。そうすれば「竹取物語」は主人公であるかぐや姫が補填の役割を果たしているから、「欠如と補填」型のうちの「補填型」の物語だといえる。

これに対して「蝉」は「missing…」で表されるようにあなた≠ェいない状況を切々と歌った「欠如型」。「さぼり」も無言の帰り道がそのままドラマになる「欠如型」。

「小遣い 足りない 足りない」というまさしく欠如の主張で始まる「小遣いUP大作戦」は欠如を何とかして埋めようと試みる過程を描いた「補填型」。「Bye Bye またね」は「今日という素敵な時間」が欠如にならんとする間際の「欠如直前型」と言えようか。

さらに敷衍して物語は欠如から始まる≠アとをグループに当てはめればBerryz工房は舞波の卒業で新たに始まったと言えるし、℃-uteはめぐの脱退で始まったとも言える。「始まったよ!キューティーショー」は大きな欠如の産物であるのだ。殊に℃-uteは栞菜の加入が必然であったのならば、結成当初から見えない欠如を抱えていたことになる。

娘。が壮大な「欠如」と「補填」の歴史そのものを見せつけるのに対して、メロンは「欠如」も「補填」もない。終始この4人で完璧だということだろうか。

ここでかなり強引にベリは「欠如型」、℃-uteは「補填型」と言ってみる。

ベリは舞波の抜けた穴を埋めずにそのままで残しておく。欠如を含めてBerryz工房、欠如が歴史を物語る。ただしその欠如も欠如というほど欠如ではなく、例えるならパズルは完成してるのにピースは一つ余ってるみたいな。ピースが欠如しているのではなくピースが入るべきスペースが欠如している。

対して℃-uteはめぐの抜けた大きすぎる穴をなんとかして補おうとするその過程を通して歴史を作り上げていく。

両者がそれぞれ別の型になるのはやはり欠如の程度の違いによるのだろう。ベリを欠如型というのは単に僕がいつも舞波の影を追っているだけなのかもしれないけど。

こんなものは一つの言説にすぎないけど、人間だって欠如(欠点)のある方が好きになる場合もある。舞波を好きになったのもまぁそういうことだし。

だってその方が「最初からできるより楽しいことでしょ」?
これは「補填型」か。



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2007年01月25日

℃-uteにおける晴れ女・雨女の再検討


「ぐだぐだクリスマス」の晴れ女・雨女に関するトークを元に、前回 (「『Cutie Circuit 2006』から晴れ女・雨女の傾向を探る」) 想定した数値を修正。

岡井「千聖晴れ女!ちょ〜お晴れ女!」
矢島「(雨女の)あたしに負けたんだよその日たぶん千聖が」
萩原「たぶん舞もだよ」
矢島「え、舞はどっちなの?」
萩原「晴れ」
矢島「…晴れなんだ」
有原「栞菜曇り女」

千聖は「ちょ〜お晴れ女」だと強烈に自己主張。雨女とした前回のデータとは異なるものの、アピールを尊重し強い晴れ女として+10に修正。その千聖を負かした舞美はみんなから雨女だと言われているので相当なものらしい。よって−12でごく強い雨女。

まいまいは「たぶん…」と控え目なので+3で軽い晴れ女に。曇り女だという栞菜は確かに欠席した8/25須磨では37℃を記録する快晴だったのに、翌日駆けつけた名古屋は曇り。雨女の一歩手前ということで−5ということにしよう。

ここから「全員そろうと曇りやすい」(=トータルの数値が若干マイナスになる)天気になるように数値をそろえてみると…

岡井 +10
萩原 +3
矢島 −12
有原 −5
梅田 −3

中島 ±0

村上 +5(鈴木と合計)
鈴木

結局雨女だと思っていた萩原・岡井が晴れ女で、晴れ女だと思っていた矢島が自他ともに認めるかなり強い雨女だったもよう。全員そろうと−2で曇り気味となる。

さらにこの数値を昨年夏からロケを行っていたと思われる「℃-ute has come」で検証。O.A.を見たことがないので天候は全てキャプ画から判断してます。

℃-ute has come

第1・2回 村上・梅田 晴れ

−3の梅田と組んで晴れということで、未知数だった村上は+8としておく。そうすると村上と合計で+5になる鈴木は‐3と想定できる。晴れちゃうと頭の皿が乾くから?

第3・4回 矢島・有原 曇り?

画像からでは判断しづらいが空が白っぽいので曇りとする。矢島(−12)と有原(−5)で−17となりかなりの悪天候になるはずだから曇りでもまだいい方?

第5・6回 岡井・中島 晴れ

岡井(+10)と中島(±0)で+10となり、そのまま晴れ。

最終的にこのような数値を想定することが可能。

岡井 +10
村上 +8
萩原 +3
中島 ±0
鈴木 −3
梅田 −3
有原 −5
矢島 −12

ここからめぐが抜けたことで7人トータルでの数字が−10となって、「全員そろうと雨」ということになるんだけど果たして実証される日は来るのか?

個人的には決して意図的にそうしたわけではないんだけど、何物にも影響を及ぼさない±0のナッキーがツボ。

もっとも体調などによって日々数字は変わることもあると思う。また組み合わせによっては加算のはずが乗算になってマイナスとマイナスでプラスになったりとかするかもしれない。そんなことを言ったらこんな数字を想定した意味が全くないんだけど。
posted by sleeping mizuki at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 【研究ノート】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Cutie circuitの8人

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ワンダ乙女GocoroのDVDマガジン。「私のうれしかったコト」としてなっきぃの挙げた「Cutie circuit」に描かれているのは8つの人影。

背の順で左からだんだんと小さくなっていって、顔が黒くなっている一番小さい右端はサングラスをかけたまいまいに違いない。そう、8つの人影はめぐのいた8人の℃-ute。当時の身長に照らし合わせれば左から4番目の人影がめぐ。

ここで問題になるのは果たしてこの映像はいつ収録されたのかということ。さらに言えばめぐがいなくなる前なのか後なのかということ。

めぐがいなくなる前ならばCutie circuitのイラストに8人の絵を描くことはごく当然で何も気にとめるべきものではないけれど、いなくなった後に描かれたのならばそれはやはりなっきぃが意識してめぐを描いたということだ。

めぐは10/31付けで脱退、翌11/1に事後報告しているからそれを境にしての前後いずれかということになる。DVD一本ができ上がるまでにどれくらいの時間がかかっているのかはわからないけど、とりあえず参考としては2005年9月11日が初日の「スイッチON」グッズDVDの収録が7月21日より少し前に行なわれている( SSMブログ )。これにより初日のおよそ二ヶ月前に収録と考えると、ワンダのDVDは11/2前後の収録となり、めぐはいたのかいないのか非常に微妙。

愛理のリアルスポフェスとか修学旅行の日程でも知っていれば一つの指標になるんだけど、それはわからないので無理。ただ例の写真が出回った直後からおそらくめぐは実質的に活動を休止していたと思うので、そうなるとめぐがいない収録であった可能性が高い。

仮にめぐがいた時に一度収録を行っていたのならば、撮り直しをしなければならないわけで、ではトークの組み合せからその可能性を探ることはできるのだろうか?

まずはBerryz工房から見てみると、

清水
嗣永
徳永

須藤
夏焼

熊井
菅谷

という組み合わせになっている。見ての通りこれはメンバーを年長順に並べて上から機械的に(?)三つの組み合わせを作ったもの。同様に年長順の並べ方は℃-uteにも見られるが、追加で加入した栞菜は一番最後に表記される。

梅田
矢島
中島
鈴木
岡井
萩原
有原

これと今回の組分けを照らし合わせてみると、鈴木・岡井・萩原の三人は固まっているものの、それ以外は特に上からもしくは下から機械的に決めたようには見えない(「梅田・中島」「矢島・有原」)。逆にそれが撮り直しをしたことによる組み替えの痕跡かとも思ったりするけどどうにも確証がなく、これ以上何かを見出すことはできなそうだ。

ただ一つ、根拠とはなりえないかもしれないけど、背景に注目してみたい。これはおそらく大きな摸造紙のようなもの(紙じゃないとは思う…)を後ろに立てかけて背景として撮影しているんだろうけど、よく見れば画面の左上に縦に4つ並んだ黒っぽいシミ状の模様があり、これが℃-ute三組ともに同じような位置に見られることから、「撮り直しは行われていない」とすることが言えるだろうか。後日撮り直しされていれば、全く同じ模様の背景になることはないように思うから。

であるならばめぐ脱退以後の収録である可能性が高まり、なっきぃはいないめぐを思って左から4番目の人影を描いたことになる。

ついでに言うとベリーズ三組と娘。四組についても同様の模様がやはり同じような位置に見られるから、ベリと℃-uteと娘。は同じ日に収録をして、なおかつ組み合わせを変えて後日撮り直しをすることはなかったんだと思う。同じ模様が見られない美勇伝と辻は別の日もしくは別の場所での収録ということになるのか?

…結局答えは出ないんだけど、重要なのはなっきぃが「8人」を描いていたということ。Cutie circuitは8人で回ったんだから。特にめぐは一度も休まずに。
posted by sleeping mizuki at 00:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 【研究ノート】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする